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留音都讃須(とでんふたたび)

 昭和三十年代の東京を知るには都電は外せない。前にも、それにつれては触れた。正直、都電の廃止は愚策であった。
 その直接的な要因は運行時間を確保出来なかったことだが、これは軌道に車を乗り入れさせたためである。廃止の代わりに、地下鉄やバスが走るようになったものの、新しい地下鉄ほど深いところを走り、ホームに下りるまでが億劫になるほどである。また、バスにしても時間が正確でなく、利用はし難い。こうした点を考えれば、軌道への乗り入れを制限し、都電を残すべきだったに違いない。
 超高齢社会になった現在、先見の明が当時の行政になかったといえる。
それに、町を知るにはこれほど便利なものはない。地方の市電を乗る度にそう感じる。人々の触れ合いや町の眺めなど、バスや地下鉄では分からないものである。人によっては、バスも市電も同じ道を走っているので、同じ景色と考えるかもしれぬがそれは違う。バスと市電を比べた場合、明らかに年配者は市電を選ぶ。これはバスよりも安全運転だからだろう。そうした点で、より社会的弱者が乗ってくる市電の方が町を知るには良いのである。
 ところで、都電については物心付く前に大部分が廃止となり、ほとんど記憶にはない。唯一覚えているのは、どの区間だったのか、廃止直前に父親や弟と一緒に乗ったことである。廃止を惜しむ人で、車内は満員であった。勿論、車掌もいた。
 ワンマン化といえば、最近では地方のローカル線でも普通になったけれど、昭和四十年代には都電だけでなく、バスにも未だ車掌がいた。今とは異なり、前ドアはなく、中ドアだけだった。前に鞄を下げた車掌が立ち、切符やドアの扱いをしていた。
 懐かしい記憶である。ワンマン化後、そうした人達はどこに配転になったのだろうか。
(第四百三十九段)
by akasakatei | 2004-11-12 20:58 | 余暇 | Comments(0)
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