この連休中、所用で左沢に行った。勿論、鉄道である。鉄道の旅のいいところは、社会の縮図をじっくり観察出来るところである。人間や地域文化を知るには、フィールドとして申し分が無い。
特に、この時期だと車窓における鯉幟に注目したい。東京では鯉幟を上げる家を最近見かけなくなったけれども、地方ではそうでもないと思っていた。ところが、現実は十年前と比較して、かなり減っていたのである。
その理由については、流れる車窓で考えた。当然少子化の影響もあるだろうが、家が増えてきていることが要因のひとつとしてあるのかもしれない。つまり、地方においても、駅近くなどは人口が密集しだして、庭のある家が建てられなくなっているのである。実際、新幹線に乗れば分るけれども、どこまで行っても東京の延長である。家並みが途切れることがない。ある異人が東京は何と広いのか、と感心した話を聞いたことがある。
こうなると、かつての旅の意味が薄れる。即ち、日常からの脱却ではなくなる。今日では日常の連続となってしまい、そうした車窓の楽しみも半減したといえるのかもしれない。それはハレとケの感覚が無くなったことを指す。社会変動を知る上ではとても興味深い。
知らない間に消えていったものはかなりの数になる。特に、年中行事など民俗関係で目立つ。それだけ、ハレの意味が無くなっていったわけである。
現在、鯉幟の起源を知っている人がどのくらいいるか知らないけれど、そこには子に対する両親を始めとする周辺の人の願いがあるわけで、ただ上げる場所がないからと廃れさせてしまっていいのだろうか。端午の節句である。ひとりひとりが今一度考えてみたらどうだろうか。
(第二十七段)