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当世御白砂事情(げんだいさいばんひょうばん)

 仕事場近くを最近巡回する警官をよく目にする。例の某宗教の教祖に対する地裁の判決と関係があるわけだが、その判決は誰もが予想通りに違いない。
これに関しての周辺の意見として目立つのは、死刑を行なうにしてもなぶり殺しにするべきなどの怒りである。心理的には確かにそうであろう。ある正義感が強い人など、教祖を「豚が屁をこけたような顔をしやがって」と表現していた。なかなかその雰囲気を掴んでいる。
それにしても、逮捕からここまでかなり長く、最高裁までいくとしたら、どれくらい掛かるのだろうか。我が国の裁判の特徴のひとつとして、長いことが数えられたりするけれど、これはどうであろうか。一般人には、裁判所は使い難く、敷居の高い場所となっている。
法には詳しくないので裏の事情は知らない。だけれど、誰もが利用出来るのが大切である。そのうち、故郷の学級委員や越生の法家に、この辺を訊いてみたい。
それは兎も角、今回、弁護団が事件の真相の解明に対して、妨害していた印象が強く、これが裁判を長期化させていたのは否めない。
 この宗教について、世間では得体の知れない恐ろしい集団というイメージであり、社会を不安にさせている。どう考えても死刑を逃れない被告の延命を裁判の長期化で実現しようとするのは、被害者やその遺族は当然として、社会も許さないであろう。弁護団は裁判で謎を解明させる必要がある。
(第百九十七段)
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by akasakatei | 2004-02-29 15:43 | 社会心理 | Comments(0)

故郷情景風呂屋(あかさかふどきうきよぶろ)

 今でこそ、どこの家にも風呂があるが、昭和四十年代までは未だ珍しく、あちこちに銭湯があったものである。故郷も例外ではない。確か、三箇所ほどあったはずである。残念ながら、それらの名前を覚えてはいない。銭湯に通っていたのは、幼稚園に入園する前まであり、それ以降は内風呂だったので仕方がないだろう。
その銭湯だが、どこも特徴を持っていたと記憶する。例えば、甲湯では池があって錦鯉が泳いでいる。また、乙湯では脱衣所で入浴者の子供たちの世話をする四十代くらいの女性がいて、男湯と女湯を行ったり来たりしていた。察するに、父親が母を恋しがる子供を持て余したのだろう。女湯に連れて行くように、彼女に頼んだに違いない。
よく行ったのは近かった乙湯で、例の女性の顔はよく覚えている。よく世話になったからである。世話といっても、先のようなことではなく、湯上り後の着替えである。
銭湯へは、祖父と行くのが日課であり、両親との記憶はない。これは年子の弟がいたこともあるし、父親が勤め人で帰りが遅かったこともあるだろう。
祖父に連れられたおかげで、銭湯での作法も覚え、同時に『浮世風呂』のように、地域での様々な人と接する機会が持てた。自然と共同体に溶け込むことが出来たわけだが、この頃までは、未だ共同体が機能していたともいえる。
故郷の様相が変わったのは、銭湯が空き出したことと無縁ではない。あちこちにマンションが出来、他所からの住民が増えるにつれ、古い住民が姿を消し、更に、内風呂を持つ家が多くなってきたことである。共同体の綻び目に付き始めたといえる。
現在、故郷を歩いても銭湯の跡は分からない。知っている人はもう少ないだろう。
(第百九十六段)
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by akasakatei | 2004-02-28 15:42 | 余暇 | Comments(0)

珍迷味(したのうえのおどり)

 何を食べれば良いのか分からない時代である。牛、鳥と今年になって、一連の騒ぎが紙上を賑わせる日々が続く。特に、牛丼については、値段の意味からも庶民的だったので、毎日食していた者にとって影響は大きいに違いない。
 先日、国分寺の師匠や東青梅の地主と飲んだ時も、彼らはオーダーに気を遣っていた。普段、肉を食べない地主まで気にしていたのは意外であった。
 滅多に食卓に肉料理が上がらず、また外食もしない身としては、別段、それらを食べなくても何とも思わないものの、世間ではそうでもないらしく、今回の騒動は改めて肉料理を好む人間がかなりの数いることを知った。
 他人が何を好もうがそれは個人の勝手だけれど、折角、四季がある国に生まれたならば、素材を活かした和食を楽しむのも一興ではないか。
 和食といえば、鮨、天麩羅、鰻、蕎麦に代表されるが、ありそうでないものが以下である。
まず蕎麦屋での「たぬきのぬき」である。これは未だ見たことがない。「天麩羅のぬき」があるので、存在していてもおかしくはないと思うのだがどうなのか。要は種があるかどうかの違いであり、「天麩羅のぬき」のように隠れメニューなのかもしれない。
 また、鰻屋における鰻重の煮凝りも同様である。これは自宅で偶然に出来たものを食べた経験がある。情けない話なので詳細は省くが、その食感はあたかもゴムのようであった。素人だからそうなってしまったのか、職人が手を加えたら売り物になるのか否かは知らないけれど、珍しかったことは確かである。考えて出来るものではない。
 そういう意味では発見と変わらない。偶然の産物といえる。
(第百九十五段)
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by akasakatei | 2004-02-25 15:41 | 余暇 | Comments(0)

故郷情景図書館(あかさかふどきえいがかい)

 地元やその近隣、仕事場近くの図書館をよく利用する。かつてはあまり利用せず、書店に足を運んでいたものだった。それが変わったのは、懐具合もそうだが、本の置き場所に困ったからである。特に、単行本はつい気付かないでいると、すぐに増えてしまう。他に文庫を月に五冊は買っているので、新しい書棚を入れてもすぐに足りなくなる。
 結果、様々な自治体や母校などの貸出券が何枚も手元にある。この中には、故郷のものもある。
 故郷の図書館では、住んでいた時にはほとんど本を借りた覚えがない。むしろ、今の方が利用している。場所が当時と変わったこともあり、それほど懐かしさはないけれど、それでも故郷の統計や議事録を捲れば嬉しい。
 この図書館で覚えているのは、幼稚園の頃、盛んに子供向けの映画を上映しており、それを観に行ったことである。子供の数も今と比較して多く、本当に活気があった。それにどういう理由か、帰りには土産まで用意されていた。
 この土産は、男子には少年マンガ誌、女子には少女マンガ誌であった。図書館にしては意外な土産である。それに漫画は悪書と叫ばれていた時代である。
今、故郷の図書館を覗くと、棚には漫画の単行本が収まっている。故郷は昔から漫画には寛大だったのか、それとも司書の趣味だったのかは判然としないものの興味深い。
 尤も、図書館に関しては、川越の図書奉行が本職である。そのうち確認してみようと思う。
(第百九十四段)
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by akasakatei | 2004-02-24 15:29 | 余暇 | Comments(0)

心量所(しょうばいおうらい)

 今年の花粉は少ないというけれど、毎年それに苦しめられていることもあり、予防として馴染みの眼科に行く。目薬と点鼻薬、飲み薬を処方して貰う。
 それを待っている間、壁に張られた掲示物を何気なく見る。そこには、花粉症や緑内障などの情報が知らされている。中でも、目に付いたのは院長の方針である。
 それによると、今年は待ち時間が少なくなることを目標にするという。その一環として待合室のディスプレイにも、今まで以上に力を入れるとある。確かに、これまでも雛人形や五月人形など季節毎に変わっていたが、どのように楽しませてくれるのか期待を抱かせる。忘れてしまった季節感を思い出させてくれるものを望む。
 一般的に、病院は待ち時間ばかり長く、診察は短い。待っている間、患者は不安な気持ちであり、それらによって少しでも心が和むものならば歓迎すべきことである。
 院長が若い女医だから細かい気配りが出来るのかもしれないけれど、患者の立場で考えることは大切である。これは医者だけではなく、駅、飲食店、銀行、証券会社などどこでも同じである。
 こうした気持ちは大切である。ただ、注意として客は基本的に我侭である。その要求の全部に対して答えることは不可能である。それを如何に上手く断るのか。そしてまた、断った要求には今後へのヒントが隠されている。どう生かしていくのかが重要である。
 消費者に欲しい物がない時代、商売をするには感性が大事になってくる。
(第百九十三段)
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by akasakatei | 2004-02-23 15:28 | 福祉 | Comments(0)

佳句験(おわらいちえぶくろ)

 庭の紅梅が開き始めた。今年の梅は早く、御茶ノ水の中央線のホームから見える梅は昨年末には白くなっていた。季節は確実に巡っている。
「時が解決する」という言葉がある。かつては、それに納得したものだけれど、現在では疑問である。というのも、自分自身が動き出さない限り、何も以前とは変わらないことに気付いたからである。ただ、全てが過ぎ去るのを待っていては、単に無駄な時を浪費してしまうだけだろう。
これに気付いたのは、最近である。切っ掛けは本当の悲しみを知ったことである。表面上だけの悲しみは、これまでにもあったのだが、心のどこかでは笑い飛ばせる性質のものであった。それが、今度経験した悲しみは、普段は空気のようなものだったので、日常では何気なく考えていたが、失った時に自分にとってどれほど大事な存在だったかを初めて知ったのである。
暫くは何も手に付かず、また、やる気にもなれなかったものの、それを忘れるために顔を上げたところ、やっと心が解放されたのを感じた。
「悲しみを知った人こそ思い遣りがある」と世間では言うが、悲しみの性質によりそれは異なるであろう。人によっては、恨みを抱くだけかもしれない。
こう考えてくると、世の中には言葉だけの偽善者が如何に多いことか。「生き馬の目を抜く」とはよく言ったものである。
(第百九十二段)
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by akasakatei | 2004-02-22 15:26 | 社会心理 | Comments(0)

呼苦内疎得勢惨(けいきていめいの)

 GDPの成長率が発表された。それによると、予想より成長率は上回っているという。景気が回復しているらしいが、その実感には乏しい。海外の影響もあるらしい。
 それにしても、バブル経済がはじけて、どのくらいの時が経ったのだろうか。失われた十年というけれど、この間、どういうことが行なわれ、その結果はどうだったのか。
 企業では、再構築の名の下に、合理化が進められ、アメリカのような成果主義も採り入れられたが、果たして上手く機能したかは疑問である。というのも、上手く機能していたならば、とっくに景気が良くなっているに違いない。それが未だに苦しんでいるのは、失敗したからに他ならない。
 この原因は、経済学の基本である「人間は合理的に行動する」という言葉を鵜呑みにし、人の心理や行動を無視して計画を立てているからである。
 人はそれほど合理的ではない。行動は様々な要因によって左右され、思った通りに動いてくれないものである。成果主義でいえば、年収に固執する社員がいる一方で、暮らしていけるだけの収入で満足する社員がいて当然なわけで、それを無視して成果主義を振りかざしても効果は少ないであろう。
更に付け加えれば、そうした社員を評価する側はどうか。かなり曖昧さが残らないか。
こうしたことを考えると、成果主義が定着するのは難しい。アメリカが行なうことの全てが正しいわけではない。
(第百九十一段)
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by akasakatei | 2004-02-21 15:26 | 社会心理 | Comments(0)

万十小零五(にんげんこわい)

 仕事場の最寄駅は東京駅である。場所柄、テレビや新聞に出ている顔をよく見かける。
 先日は、元力士のタレントである某とすれ違った。構内を向こうから歩いてきたのだが、体が大きいこともあり、ひと目で誰だか分ったほどである。その姿はまさしく歩く風呂桶である。
 その某だが、弟子かそれとも付け人か、強面の格闘技をやっていたような何人かが周辺にいて、ファンが容易には近付けない雰囲気であった。某は終始視線が定まらず、何かを怖がっている感じである。様子からすると、すれ違ったことなど、余裕がなく気付いていないであろう。想像だが、強面の連中が、実はその筋の関係者で脅かされていたのか。
尤も、その後、何も報じられていないのだから無事なことは確かだが、少々気にはなる。
ところで、怖いといえば、昨夜自宅近くで、生首を抱えた黒服の女性を見た時は驚いた。角から現れた時、最初は首だけが闇に浮かんでいるようで、肝を潰したものの、その姿を追うと、近くの美容院に入って行った。どうやら、その女性はスタッフで、首はマネキンらしい。真相が分かれば何でもないが、突然だと多少動揺はする。   
こう見てくると、他人の行動を理解するのは難しく、この世で一番怖いものは、やはり人間だと改めて認識する。
(第百九十段)
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by akasakatei | 2004-02-20 15:23 | 余暇 | Comments(0)

雲土雨火日(ぷろすぽーつのあす)

 大相撲が韓国に行っている。国内ではすっかり人気がなくなってしまったが、隣国ではそこそこ評判が良いという。
 そこで、人気について考えてみる。かつて、相撲人気があった頃、少年漫画や学習誌の表紙を横綱だった朝潮関が飾ったことがある。そのライバル誌はプロ野球で対抗、確か、長嶋選手であった。勿論、両誌とも、読者であるちょっと賢そうな少年とのツーショットも忘れない。
 これを今再現することは不可能か。
 大相撲だと、高見盛関で決まりだろう。横綱より、そのキャラクターで子供受けするに違いない。現にテレビCMでも子供と活躍している。
 プロ野球では元巨人の松井選手か。イチロー選手はあまり笑わないこともあり、子供受けという点では難しいかもしれない。
 サッカーや格闘技と色々と机上でやってみたが、一番難しい競技はゴルフであった。他の競技だと、それなりに名前が挙がってくるが、ゴルフではそうでもない。
 プロゴルファーのうち、子供との接点で考えた場合、まず男子では浮かんでこない。むしろ、女子プロの方だとすぐに宮里選手と出てくる。ただ、少年を対象とすることを考えると、やはり男子が望まれる。
 ゴルフ人口は年々下降しており、それに伴いゴルフ場は苦しい経営を強いられている。今のうちに次世代に対し手を打たないと、衰退するばかりである。
(第百八十九段)
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by akasakatei | 2004-02-16 15:22 | 教育 | Comments(0)

光剛一食物(せいじしゅうきょうにつづくもの)

 約一年振りに、東青梅の地主に会う。新宿の大蒜料理屋に入り、この間の溝を埋める。
 大蒜料理を普段食べることはない。というのも、家人らがその匂いを嫌うためである。故に、翌朝は早くから窓を全開にし、空気が入れ替えられたほどである。それをやりながら、額に青筋を立てながら怒っている顔を見ているうちに、こちらも不快になる。抵抗感がない人間からすれば、これらの行為は異常に映る。
家人もクサヤや納豆は食べる。それらの匂いもかなり強烈なはずだが、平気な顔をしている。家人の場合、自分が好む食べ物は例え臭くても大丈夫であり、嫌いなものは駄目ということである。この好みが個人レベルで収まっている分ならば問題はない。ところが、これがそうではなく、好きな食べ物に関して悪く言う人については、逆に「こんな美味いものを嫌う理由が分からん」ということになるから困る。所謂、好みを押し付ける傾向がある。
この論理を家人に言うと、全てが屁理屈になってしまい、話をしている方が疲れてしまう。
この種の話にはこと欠かさない。一例としては、今話題の某牛丼屋である。ここの味付けを気に入っていたが、どう見ても肝心の牛肉に感心しない者としては味付けで誤魔化しているとしか思えないのだが、それを指摘すると前述の如く怒り出す始末である。手に付けられないほどである。
一般的に、政治や宗教の話は禁忌というが、人によっては食物でも同じことがいえ、くれぐれも気を付けることを勧める。
(第百八十八段)
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by akasakatei | 2004-02-15 15:21 | 余暇 | Comments(0)