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清掃職人独演会(あらたなるのみともだち)

 仕事場をふた月毎に訪れる人がいる。目的は空調のフィルタ交換である。仕事場があるビルの管理会社が契約をしているので、どこの業者かは知らないけれど、ふとしたことで飲むことになる。その名を川口の清掃職人という。
 上野で飲んだのだが、その店はかつて清掃職人が働いていた居酒屋だという。そこで、清掃職人の半生を聞く。年齢は東青梅の地主よりひとつ下で、十代の頃は、やんちゃだったというが、内容を確認すると、いわゆるつっぱり世代で、暴走族の頭をやっていて、警察は当然として、少年鑑別所の世話にもなったらしい。それが原因か否かは知らないけれど、高校を中退し、ホストをしながら(店ではナンバー2)、定時制高校を卒業したと話す。
 現在は、子供にも恵まれ幸せな家庭を築いており、過去より現在がどうなのかが重要だと力を入れる。努力をし、様々な資格を取ったようだが、その過程を馬鹿にする周辺に対しては許せない性質だと述べる。
 夕方から飲み始めたのだが、気付けば八時過ぎである。この間、清掃職人の独演会である。清掃職人はカラオケが好きだといい、カラオケボックスを探し御徒町へ出る。
 新たな飲み友達が出来た夜である。
(第百八十三段)
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by akasakatei | 2004-01-31 15:16 | 余暇 | Comments(0)

真吾敦(いとせざるこうか)

 ある調査によると、景気が良くなっているといわれているものの、庶民にはその感覚はない。どういった調査法を採り入れているのだろうか。
 学窓を出てから十年以上の時が流れているが、この間の厳しい生活しか体験したことがない者にとって、好景気自体本当にあるのかどうかさえ疑問である。
 バブルの頃は学生であり、特に恩恵があったわけではなく、その実感さえなかった。当時、川越の図書奉行と履修した講義に「遊びの経済学」がある。
 その要点は、リゾート開発が盛んだったその頃としては珍しく、経済成長よりも休暇を増やし、ゆとりある生活を提唱するものだったと記憶している。同時に、試算も行なわれ、諸外国と比較したが、その後の実情はどうであろうか。
 いざ、低成長になってみると、確かに、人間的な意味における豊さの重要性は一部で認められてきたが、基盤となる社会生活そのものが破綻の状況となってしまい、明日さえ分からぬ日々となってしまった。超高齢社会、少子化、治安、教育など不安要素ばかりで、立て直す処方も見付からない。どこで狂ってしまったのか。
 何はともあれ、それらに対する私見は今まで書いてきたので繰り返さない。ただ、思うのは政策を担う者には机上だけでは計算出来ない予期せぬ結果が生まれてしまうことを忘れて貰いたくないものである。
(第百八十二段)
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by akasakatei | 2004-01-25 15:16 | 政治 | Comments(0)

故郷情景学往来(あかさかふどききょうかしょ)

逓信総合博物館に行く。同博物館へは小学校を卒業して以来であるから二十年以上振りである。当時、クラスで切手収集が流行しており、その関係で訪れたのである。
今回はそれとは関係なく、滝平二郎氏のきりえを楽しむためである。「滝平二郎きりえ回顧展~ふるさとの風よ雲よ~」が来月一日まで開かれている。普段、あまり美術には関心を持たない方だけれど、氏の作品は好きである。懐かしい匂いがする。
特に、最近、世の儚さをより感じ、癒しを求めている者にとっては何よりの慰めである。
朝日新聞日曜版に掲載された作品を中心に、絵本、切手などのそれも展示されている。目に付いたのは『モチモチの木』のアニメーションである。原画を上手く処理しており、違和感を覚えさせない。大概、漫画や小説の挿絵は、アニメにするとどこか違うのが普通である。
『モチモチの木』については、小学校二年の国語で習い、また中学時代、国語担当だった鵠沼の校長が、何かの話の脱線で触れたことが思い出される。小学校ではどういう授業だったかあまり覚えていない。作品の記憶だけである。確認したところ、これは故郷の学級委員も同様で、作品の記憶自体さえなかった。
これが中学になると、記憶がはっきりしてくる。直接、試験には関係なかったものの、主人公の弱さと優しさについて、語ったと記憶している。
何はともあれ、子供の頃に触れたものに、今改めて接すると懐かしくなるのは、それだけ年を取ったということだろうが、自己形成を知る上ではなかなか有意義と考えている。
(第百八十一段)
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by akasakatei | 2004-01-18 15:14 | 文芸 | Comments(0)

和香藻野質(しょくばこころえ)

 各新聞によると、今年の元服式もまた各地で荒れたという。この問題に関しては、これまでにも触れたことがあるが、成人の自覚がないとしかいいようがない。
 つい今の若者はと怒りたくなるが、ひばりが丘の印刷屋によれば、年を取ってもそういうことは言いたくないという。その理由は言ってしまったら、時代に遅れていることを証明したようなものだからだと説明する。
 確かに、気持ちの上ではそれは反論出来ないけれど、仕事面から見たらどうであろうか。
 特に、仕事では利益を上げなければ、いくら過程が良くても意味がないとされる。努力よりも結果を重視するわけだが、例えば、そこで若い社員が予想もしない行動に出たらどうだろうか。
 結果が付いてくれば大方は何も言わないに違いない。仮に、その反対だとしたら小言のひとつも言いたくなるものである。小言を言う方の気持ちは、ある程度仕事が分かってこないと煩いだけで終わってしまう可能性がある。若者はそれを素直に聞く耳が必要である。
 こう書くと既存の殻を破らなくても構わないのかと思われそうだが、まずは基本を押さえてからだろう。最近では初めから柔軟な発想を求める傾向が目立つものの、基本を知っているのといないのとではかなり違うはずである。
(第百八十段)
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by akasakatei | 2004-01-16 15:14 | 産業 | Comments(0)

鵜蓑貢流染(みずのくいな)

 さて、前段で今年は作品を仕上げるべく、成るべく机に向かいたいと書いた。あれから初めての休みである。結果はどうであったか。
 正直、執筆時間が普段はなかなか取れないので、筆がもどかしくなるほど書きたいことが泉のように湧き上がるのではないかと思っていたのだが、実際のところは筆が進まない。どうでも構わない野暮用を優先してしまい、それらを片付けたらもう日暮れも近い。
 日暮れといえば、最近日没時間が昨年と比べ遅くなったことを実感する。立春まで二十日余りである。季節は明らかに進んでいる。この調子だと、すぐに一年など経ってしまう。書くところの話ではない。
気を取り直し、机に座り直す。
執筆もかつてと違い、パソコンを使うので、推敲は明らかに楽になったものの、トラブルばかりでそちらの処理に神経を使うので、疲労具合は変わらない。それでもパソコンに頼るのは、手書きの原稿をどこも嫌うからである。特に、癖が強い字は敬遠される。
パソコンを使い出し、四年くらいになるが、この間よく言われるように、漢字を書けなくなったことを痛感する。変わらないのは、執筆中の苦しみだけである。
(第百七十九段)
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by akasakatei | 2004-01-11 15:12 | 情報 | Comments(0)

甲府口(かいのごとく)

  甲申も知らぬ間に七日が過ぎた。この年末年始の休みは飲んでばかりいた気がする。実際、佐貫の酒仙が大晦日と三日に東京に出てきたこともあり、いつもアルコールが体内に残っていたと思われる。どうみても健康的な生活とはいえないだろう。
 前に不治の病について触れたけれど、この大敵は身体の火照りとバターを使ったり、揚げたりした濃い料理だという。要は規則正しい生活をしなければならないということである。
 そこで、酔いの覚めたところで、今後はなるべく外出を控え、蝸牛みたくじっとしていることにした。こうしていれば、飲む機会も減るに違いない。
 他にも理由はある。どういうわけか、最近、飲んだ後など妙に虚しくなったりする。たぶん、病と関係しているのだろうが、アルコール依存症にならないうちに本能的に控えようとしているのかもしれない。
 更に次の理由である。
 つい先日、酔った頭で深夜にテレビを観ていたところ、何時の間にか寝てしまい、気付いたらアニメになっている。ぼんやりと眺めていたところ、エンディングが始まり、そこに中学時代に同級だった某が演出として名前を連ねている。当時担任だった鵠沼の校長から、この方面に進んだことは聞いていたが、実際、目にすると遠い世界の人間になってしまった感じがする。つい比較をし、焦りさえ覚える。
この年になっても未だこれということをしておらず、今年中にこれまで温めてきたテーマで作品を書きたいという思いが湧き上がってくる。そこで集中しようと思った次第である。このような年が一回くらいあっても良いだろう。
(第百七十八段)
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by akasakatei | 2004-01-09 15:11 | 余暇 | Comments(0)

位事実荏持(そうちんじゅめぐり)

 世間は静かである。どこの家でも寝正月なのであろう。これが江戸からの正しい正月の過ごし方なのだが、最近では単なる冬の長期休暇とする向きが目立つ。確かに、かつてのように店屋が閉まっているわけでもなく、食べ物に困ればコンビニに走ればいいわけで、雰囲気からして正月気分から遠くなってしまっている。
 この背景にはやはり経済的な側面がある。正月は誰もが休む期間であり、氏神に新年の挨拶をする位置付けだったのが、何時の頃からか、元旦から営業をするのが普通になってしまった。他社が休んでいる時に、店舗を開けば人が押し掛けるのは当然で、そういう意味では常識を破ったのかもしれない。
 良いかどうかは別としてこうした正月気分が薄れていくのは寂しいものである。正月気分といえば、どうして子供の頃はあんなに楽しみだったのだろうか。大人になると、別段楽しみでも何でもないのだが、それが消えていくことに対しての抵抗感だけは残る。金儲けだけの風潮で民俗を消してはならないだろう。
 幸い今住んでいる町は大手スーパーがないこともあり、ひと昔前の正月気分には浸れる。静かな町を楽しむべく、例により、元旦同様に外に出る。今日は、この町の各氏神を纏めている総鎮守へ行く。地元では比較的大きな神社である。総鎮守とはいっても、訪れるのは何度目かという感じで、馴染みがあるわけではない。それでも、規模が大きいこともあり、神主はおり、社殿からテープに吹き込まれた祝詞が流れている。またここではお札も扱われている。昨日、氏神にはなかったので、ここで手に入れ、早速家に戻り、南側向きの高いところに張る。
(第百七十七段)
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by akasakatei | 2004-01-03 15:08 | 余暇 | Comments(0)

甲申新春空(へいせいじゅうろくねんはつはるもよう)

 昨年は最後の最後でろくなことがなかったので、今年は縁起を担ぐことはしない。成り行きに任せることにする。本来、計画を立てることは嫌いではない。それが上手くいかなかったとなれば、やり方を変えるしかないだろう。
 地元の氏神にも挨拶する予定はなかったものの、家人に誘われたこともあり、足を向ける。家人は昨年のお札を手にしている。氏神までは徒歩十五分ほどで、何時前を通ってもひっそりとしている。参拝者を見掛けるのは、正月か祭くらいであり、たぶん普段は神主などおらず、有志が掃除や雑事を行なっているものと思われる。
 氏神に近付くと、あちこちから人が集まってくる。意外と多い。境内に入ると、驚いたことに行列が出来ている。初めて目にする光景である。十一時と時間が遅いからか。
 手を濯ぎ、上着と襟巻きを取ってから最後尾に付く。宗教心がなくても、寺社を訪れる時の心得のひとつである。そのためかどうかは知らないけれど、参拝後、御神酒を勧められる。有難く貰う。
 先に参拝を終えた家人によれば、今年から破魔矢だけで、お札は扱わなくなったらしい。お札は手頃な値段だったが、売れなかったからか、それとも手間が掛かる割に実入りが少なかったから止めたのかは知らないけれど、ここにも不況が感じられる。尚、破魔矢の値段は二千五百円である。
 帰路、マンションのごみ集積場で烏が漁っている。金属製なのだが、隙間から嘴を入れている。金属と嘴が触れる音が静かな町に響く。向こうから、巡回中の警官が来るも、一瞥しただけで通り過ぎる。
(第百七十六段)
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by akasakatei | 2004-01-02 15:07 | 余暇 | Comments(0)

夢時世(はかなきひ)

 今年は珍しく除夜の鐘を聞きながら、新年を迎えた。甲申である。
 例年、大晦日は佐貫の酒仙と杯を傾ける。とはいっても、一緒に年越しをするわけではない。未だ、日が明るい頃から飲み出して、大抵九時前には別れてしまう。昨夜は暮れ六つには別れていた。こういう状態だから、帰宅するとつい布団に潜ってしまうことになる。それで、除夜の鐘を知らずに、新年になっているのである。
 飲む場所は毎年異なる。神楽坂、王子、四谷、故郷と様々である。これは町の散策をしてから飲むからである。大晦日に暇なことをしているといえばそうともいえる。今回はあまり縁がなかった西の方向である。場所は吉祥寺とする。
 吉祥寺には多感な時期、中学高校と六年間通ったことがある。地理的には分かっているつもりだけれど、店については自信がない。このご時世、変わっているに違いない。
 酒仙は吉祥寺をよくは知らないというので、こちらが案内人になるも、果たして知っている店はなくなっていて、見慣れない風景である。浦島状態といえる。
特に、よく昼下がり親子で将棋を指していた魚屋がたこ焼き屋になっているのを確認した時は愕然とした。ただ、表札を見ると、住人は変わっていない。魚屋だった経験を生かし、新鮮な蛸を使うことにより、生き残ろうとしたのだろうか。それとも店舗を貸したのだろうか。
 年月の流れを感じる。ふと無常を覚える。「門松は冥土の旅への一里塚」と言うが、あちこちに飾られた門松を見ていて、人の世の儚さを改めて知った次第である。
(第百七十五段)
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by akasakatei | 2004-01-01 15:06 | 余暇 | Comments(0)