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鉄道心得術(いのちをかけて)

 京葉線で小学生が轢かれる事故があったが、ホームに駅員がいれば防げたのではないだろうか。最近の鉄道では、日中にホームに駅員を置かないけれど、安全面から考えると甚だ疑問である。鉄道会社によれば、人件費を浮かしたいのが本音に違いない。
 先日も首を傾げることがあった。中央線は一週間のうちにどのくらい遅れるか分からない線だが、報じられない遅れを含めるとほぼ毎日遅れている感さえある。
 帰宅するため、東京駅のホームに上がったところ、人が一杯で、ひと目で事故があったことが察せられる状況にも拘わらず、案内放送も何もなく、駅員もいないため、運転状況を知るべく改札に戻ったことがあった。そこでの改札員の応対も不親切極まりなく、利用者を考えていないことは確かである。改札員によれば、十分ほどしか遅れていないというが、そこには悪びれた様子は全くなかった。
 大方の利用者が何も言わないのは慣れしか考えられない。要するに、鉄道会社に何を言っても無駄ということだろう。
 何はともあれ、ホームに戻れば立錐の余地もない。ひとりが誤って落ちれば、更に遅れることになるだろう。こうした状況をもっと把握すべきである。人間はいつも合理的に行動するわけではなく、何時何が起きても可笑しくはないのである。危機管理を徹底すべきであろう。利用者からすれば、鉄道に乗るのも命がけということになる。
(第百四十二段)
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by akasakatei | 2003-09-29 14:32 | 産業 | Comments(0)

職人魂(うたがうことただしきことなり)

 J大学付属A病院の事件は、全く人命をどう考えているのであろうか。人体実験と言われても、仕方がないであろう。病院側は患者側には、確かに説明したというが、これは独り善がりである。大体において、伝わっていないことの方が多い。一般的な風邪でさえ、最近は町医者でも説明をしてくれるが、それでも分からないことが普通である。手術を伴うものだったら、尚更理解出来ないだろう。特に、今回は犯人達でさえ詳しいことを知らなかったようである。手術中にマニュアルを読みがら、また業者も立ち会っていたというが、これは尋常ではない。どうしてこういった医者を育成するのであろうか。
 最近は、本当の意味においてのプロがいないと言われるが、これは確かだろう。どこかに甘えがあるのではないか。
 前に触れた某銀行S南口支店より、通知が届いた。その差出人を見て唖然とする。S支店になっているのである。S南口支店はS支店内にあることは以前にも書いたが、今度もまた利用者のことを全く考えていない。もし、これで不明な点があった場合、封筒に記載されている電話番号に掛けてしまう可能性が高い。こうした時、掛け直しをさせるようでは失格である。明らかに、銀行側のミスだからである。それにまた、その文字が小さく、年配者には辛いほどである。これでは、事前に気付かないであろう。
 こういった綻びが見えた時、我々は自己防衛を働かせる必要があるだろう。何とかなると考えるのは間違いである。
(第百四十一段)
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by akasakatei | 2003-09-28 14:31 | 産業 | Comments(0)

伝達法筆力(そうごさようかていかきかた)

 生命保険の外交員が仕事場を訪れる。用向きは決まっているが、その時、契約時の定款について訊ねると、あれは契約前に読ませるものではなく、契約後に渡すものだと言う。試しに、見せて貰うと、電話帳ほどの厚さであまりの悪文に理解に苦しむ。どうやら、初めに読ませて納得の上に加入させると、後々会社にとって不利だからだと思われる。
 こうした例は多い。悪文で有名なのは電化製品やパソコンの説明書である。何が言いたいのか全く伝わらない。第一専門用語が多過ぎる。これでは利用者には親切とは言えない。
 また『六法全書』もそのひとつであり、主語述語が掴めず、知らなければならない国民が理解できる範囲を越えている。
 一般的に、実用的なものほど悪文が多いのは文章の専門家が書いていないからだが、それでももっと何とかなるのではないか。文とは相手に分からなければ意味がないものであり、読む人のことを考えて書くものではないだろうか。
 そういう点から考えると、文章力が求められるのは実務的な社会科学だろう。逆にいえば、教養的なイメージの人文科学はそうでもないことになる。だが、現実的には文章力はその反対となっていることが多い。もっと、文章力を高める必要がある。
 それには書くことが一番だが、その前に多くの本に出会うことが大切である。この場合の読書とは勿論、佐貫の酒仙のようなものではなく、実用書以外のものを指す。
(第百四十段)
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by akasakatei | 2003-09-27 14:30 | 産業 | Comments(0)

雨夜下(おいはぎざつだん)

 夜、帰宅するため、千代田線に乗っていた時のことである。我が家は小田急沿線にある。代々木上原で乗り換える必要がある。もうすぐ地上に出る手前の明治神宮前に着いたのだが、そこで車内に案内放送が流れる。
 これから向かう代々木上原と代々木公園間で停電のため、運転出来ないという。これが代々木公園に停車していたなら、代々木八幡と隣接しているので、歩くことも可能だが、明治神宮前では中途半端である。
 山手線で新宿か渋谷に向かうか、後は徒歩で明治神宮の境内を横切り、参宮橋に行くしかない。尤も、夜も境内を開放しているか否かは知らない。何はともあれ、既に、時は九時を過ぎており、生憎雨も降っている。
 こうなると、流石に徒歩では行く気がしない。夜の神社は、正直言って、そう気分の良くないものである。これは境内の木々よりも、人間の方が怖い。つまり、芝居の影響か、無法者らが木の陰に隠れていて、通り掛る人間に対し、追剥をしようとしているのではないか、と想像してしまうのである。冷静に考えれば、何時通るか分からぬのに、待っているのは気の長い話である。
 一般的に、江戸では山賊がいて、よく旅人が襲われていたと思われている節があるが、現実として考えた場合、あまり割りの良いことではないのは先の例からも分かる。現代では、何時犯罪に巻き込まれても可笑しくはない時代であり、むしろ治安は現代よりも良かったに違いない。
 色々考えを巡らせていると、漸く電車が走り始める。
(第百三十九段)
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by akasakatei | 2003-09-26 14:29 | 余暇 | Comments(0)

心技体総見(かくかいにものもうす)

 秋場所が終わったが、どのくらいの人が関心を持って土俵を見ていたのだろうか。
 相撲の不人気が言われて久しい。この間、関係者が手を打っているようには見えない。不人気の理由は明白である。第一に、八百長であり、気の抜けた相撲が目立つ。
 先日、大関が平幕の人気力士について、稽古では手を抜き、本場所ばかりに力を出すと激怒していたが、これは可笑しい。客は力相撲を期待しているはずで、八百長相撲など見たくはない。
 また、協会幹部連中は人気力士の仕切りにも、伝統という立場から批判をしていたが、あれは自然と出て来るもので、止めさせるべきではない。真剣な相撲の証しではないのか。
 とはいえ、相撲は喧嘩ではない。かつて、そうした発言をして物議を醸した大関がいたけれど、優勝した横綱の土俵態度は疑問である。相撲では「心、技、体」が求められる。横綱ともなれば、尚更で、こうした時代だからこそ、心は重要である。また、民俗学的視点による力士を考えれば、その理想が見えてくる。
 第二に、切符の売り方だろう。客の大半は桝席を熱望する。相撲という雰囲気を味わいたいからで、それが未だに分かり難い販売方法となっている。椅子席は簡単に買えるものの、そうした魅力は伝わり難いのだが、協会が椅子席ばかり勧めるのは如何ものか。
 こうなってくると、以前に稽古見学について触れたが、その人気が分かるというものである。独特の雰囲気、真剣さと本場所を勝っている。
 一般的に、角界の常識は世間の非常識というが、もっと、世間を知らないと更に厳しい道を歩むことになりかねない。
(第百三十八段)
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by akasakatei | 2003-09-24 14:28 | 文芸 | Comments(0)

御存道頓堀(とらびいきぶんせき)

セリーグの優勝は虎軍団に決まったが、その夜からのファンの川への飛込みをどう考えるか。川越の図書奉行はその振る舞いに関して大いに立腹しており、感想を求められて道徳心の欠如について指摘したものの、よく考えてみれば、この根は意外に深いのではないだろうか。
 というのも、大衆芸能や芝居の世界では、江戸や上方を区別しており、実際、その味はかなり違う。江戸では粋を重視するが、上方は濃厚である。
 こうなると、虎ファンのその行動が粋でないことは明白である。上方文化といえるかもしれない。
 尤も、この優勝を祭りの視点から捉えると、ハレの場ということで、大騒ぎを当然と見ることも出来る。
 ファンでも何でもない第三者からすれば、今回の行動自体が理解不可能であり、冷静な判断力があれば、わざわざ人体に影響を及ぼすであろう川などには飛び込みたくはない。こうなると、特殊状況下における集団の心理を分析する必要が出て来る。
 何れにしろ、ひとつの方向からは見えてはこない。様々な角度より迫るしかない。
 それにしても、死者まで出しており、図書奉行ではないが見ている人間としては辟易とする。自己責任の時代だとはいえ、こういう点では江戸が勝る。
 例えば、川開きでは、浮世絵からも分かるが、現代以上に賑わっており、当時茶番が流行していたこともあり、それを利用し、身投げの真似をした者もいたという。当然、周辺の者は大騒ぎをし、これは心配をしてのことだろう。唆す現代とは異なる。その後、身投げをした者は、茶番だったことを明かして、仲間と余興を行ない、心配した者も安堵の思いで楽しんだらしい。他人への心配りがあった頃の話である。
(第百三十七段)
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by akasakatei | 2003-09-21 14:27 | 社会心理 | Comments(0)

故郷情景祭(あかさかふどきさいれい)

月島も佃と近いが、酒仙の父君について生家の記憶があやふやなために、すぐにもんじゃ通りを抜ける。ただ通過しただけである。それでも佐貫の酒仙は満足そうである。勝鬨橋を渡り、歌舞伎座前へ。
 銀座まで出、故郷へ行くことにする。今日は氏神様の祭礼である。故郷の氏神は氷川神社である。
 現在、氏神に関してどのくらいの地で祭られているかよくは知らないが、故郷のそれはかつてを知る者にとっては寂しいものであった。露天も少なく、大体、祭りを知らぬ者の方が多いに違いない。   
確かに、神輿や山車などが各町内にあり、法被姿の役員がいて、お神酒もあるとなれば、普通、住民も参加して祭りの雰囲気は盛り上がるはずだが、参加者がいないこともあり、話しにならない。祭りだからか、商店街も閉まっており、活気がないこと甚だしい。今後の課題に違いない。
 それでも、子供の姿はいつもより多い。これはいつの時代もそうである。やはり民俗学でいうハレだからであろう。だが、かつては子供神輿や山車などもあったはずだが、今回その姿を見ることはなかった。
 元々、秋祭りとは収穫を神に感謝するもので、その地域の人々が集まり、祭ったものである。それが農業人口が減り、並行して地域社会が崩壊するとともに、夏祭りと比べて陰が薄くなったといえる。
 四季に関係なく、食卓に物が並ぶが、感謝の念を忘れてはなるまい。
(第百三十六段)
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by akasakatei | 2003-09-20 14:26 | 余暇 | Comments(0)

白魚漁(つくだじまさんさく)

 佐貫の酒仙と久し振りに飲む。四月以来だから、五ヶ月振りか。
 一時半に御茶ノ水で待ち合わせたが、飲むまでに間があったので、佃、月島を回ることにする。月島は酒仙の父君の出身地である。これは彼の自己探しのルーツになる。
 何れも徒歩である。新川より入るが、知らないマンションや橋が出来ている。中学生の頃に訪れた時は、目にしなかった建築物である。浦島太郎状態である。が、佃は狭いこともあり、すぐに住吉神社を見付ける。
 住吉神社は佃を語るには忘れてならないものである。江戸の初期に大阪より移住した漁師によって開かれた島で、住吉神社も大阪のそれと関係がある。
二十年以上前も夏に訪れたが、その時は祭りの翌日で後片付けをしていた若者の姿を覚えている。あの当時さえ、地域社会は珍しく、そのために印象に残っているのだろう。この近辺は戦災に遭わなかったためか、古い家が結構残っていたものである。地縁が強くても不思議ではない雰囲気ではあった。それが今では高い建物に囲まれている。プライバシーを重んじるマンションでは地域の繋がりはかなり薄れているであろう。
 ただ、所々に昔ながらの面影を残していることも事実であり、遠くより来たのか、ガイドブックを手に散策をしている人もいる。懐かしさであろうか。
(第百三十五段)
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by akasakatei | 2003-09-19 14:25 | 余暇 | Comments(0)

宮頼真紅須(ぶたいはつおめみえ)

 八月中は涼しかったのに、九月になって急に暑くなってきた十三日、両国へ行く。好角家なら、相撲を思い浮かべるだろうが、目的はその隣地にある江戸東京博物館である。
 ここで歌舞伎が行なわれている。一般的には、東京の人間ならば、歌舞伎座や国立劇場が有名だが、ここのホールにおいて年に一回小芝居がある。
 演じているのは、勿論、歌舞伎役者だが大幹部は出演しない。大芝居における脇役が多い。また、今小芝居の特徴を生かし、歌舞伎を身近に感じさせる工夫をしている。
 例えば、様式美や大道具などを舞台上で説明してくれるのである。その時、舞台に、人数は限定だが、やりたい人も参加させてくれる。
 今回は様式美と大向こうについての説明で、希望者は、見得を切り、大向こうから屋号が掛かるという。
 魔が差したのか、気が付いたら舞台におり、重たい衣装を着て、刀を手にしていた。自慢ではないが、演劇の舞台には出たことがない。指導の歌舞伎役者も一緒であったが、緊張のためか、「赤坂屋」と声が掛かったはずなのだが、全く分からなかった。照明も明るすぎて、客席は見えず、どこに視点を合わせるのか戸惑うばかりである。観るのとやるのとでは大違いである。たぶん、かなりぎくしゃくした動きだったはずで、観ている方も辛くなったのではないだろうか。最後に、記念の写真を貰う。これを目にする度に、恥ずかしくなるのだろう。
(第百三十四段)
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by akasakatei | 2003-09-14 14:24 | 文芸 | Comments(0)

心玉之銭湯(せいしんよくじょう)

 平日の昼下がり、寄席に足を向ける。お江戸上野広小路亭である。ここは、最近、特別興行を除き、平日は半額の千円で噺を聞ける。寄席の入場料は寄席にもよるが、多くは昼夜入れ換えなしで約二千五百円前後である。足を向けた寄席は昼の部だけだが、それでも割安といえるだろう。
 上野周辺を歩いていると、背広姿の会社員ばかりが目に付く。何だか、後ろめたさを覚える。この感覚は、学生時代、授業をサボった気分である。そのためか否か知らぬが、警官を見ると横道に入りたくなる。
 ところで、平日の寄席は空いているという。どういった人が聞きに来ているのか。休日とは異なることは確かであろう。余裕のある定年退職者か、それとも学生か、そういった予想しか浮かばない。
 演芸場は小ぢんまりとしており、出演者との距離は近い。前側は茣蓙に座椅子で、後側は椅子席となっている。迷うことなく、座椅子にする。
 前座の頃は空席があったが、中入り前にはおよそ満員になったようである。客層の多くは男性で年配者である。定年退職者らしい人もいるが、そうでない感じの人もいる。若い人は十人いるか、いないかである。
 何はともあれ、ここは笑うことによって、日常を忘れられる空間である。精神的な浴場ともいえる。主任の噺を聞き、外に出た時、明日への新鮮な気持ちが湧く。
(第百三十三段)
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by akasakatei | 2003-09-13 14:24 | 文芸 | Comments(0)