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芥川竹(やぶのなか)

セパ両リーグで優勝が決まった。春より番組欄を眺めながら思っていたのだが、どうして放送は九時までなのだろうか。そこには必ず、九時半近くまで延長の場合ありとあるが、大体において九時までに、終わったことがない。ならば、最初より九時半までにした方がいいのではないだろうか。そうすれば、この時期に必ず議論となる、以降の番組における放送時間の変更などが問題になることも少なくなるに違いない。
こうした不思議に思われる番組編成が日常的に行なわれている。更に例をあげると、某アニメ番組だが、これなどは女子小学生を視聴者の対象として製作されたものの、どういった理由からか深夜に放送されてことがある。
マスコミの世界は正直言って、役所同様に我々の常識が非常識なところなのだろう。
日常的にこの種については経験する。専門家はあまりにも知識に偏りすぎるため、素人の話を笑いながら聞く傾向にあるが、実際にはそれは消費者が求めているものである。それに応えない企業や組織に明日はないに違い。こうした苦情こそ、宝の山である。業界の常識とは、というのは決して褒め言葉ではない。各業界がこれに気付くことを望む。
特に、今年はそれで失敗した組織について記憶に新しい。同様な轍を踏まないことである。毎年、その年を漢字一字に例えるけれど、今年は「疑」か。某国の疑惑もある。年末に注目である。
(第五十一段)
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by akasakatei | 2002-09-27 12:29 | 情報 | Comments(0)

娯吾意茶通(いちのなかいり)

丁度これが五十段である。初段を掲載したのが、昨年の神無月二十一日だから、テレビでいえば一年間放送したことになる。それにしても、この間よくこれほどの「タメグチ」があったと思う。
本来、ここは国分寺の師匠より間借りしているようなものであり、食べ物関係の話をするのが筋には違いないものの、敢えて「タメグチ」を許してくれた師匠に感謝したい。
その「タメグチ」だが、こう書いている側より腹立たしいことばかりである。例の某国のことである。
今回の会談においてある程度の進展があったことは事実だが、あまりにも結末が酷すぎる。これでは何気ない日常どころではない。
前向きに考えるならば、人というものは信じられない者であり、今後信じなければ裏切られることはまずないに違いない。極端な話、配偶者さえ何を考えているか分らないのである。異人を信じること自体馬鹿なことといえるだろう。
新聞やテレビなどの情報からすると、一連の犯行は我が国にいる某国人が絡んでいるという。今後も何かしらの危害を加えてくる可能性は否定出来ない。一番の対処法としては、国外に追放させるか、どこかに収容する他あるまいが、人権国家ということもあり、前者以外の方法しかないだろう。
 ところで、人権国家であるはずの我が国だが、某省の対応はどうであろうか。元々問題の多いの省であったが、あまりにも人の心が理解出来ていないとしかいいようがない。
 何はともあれ、このご時世、残念ながら他人は信用出来ないのである。この一年を振り返ると、結局そこに行き着いてしまう。
(第五十段)
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by akasakatei | 2002-09-20 12:28 | 国際 | Comments(0)

十二号線内(ローズラインない)

東京を考える場合、下町、山の手、多摩に分けると分り易いけれど、この範囲が年々変化しているという。特に、多摩以外は広がる傾向にあるという。例えば、下町とは柴又辺りまでを入れ、山の手だと吉祥寺近辺までを指すらしい。
 自分の感覚だと、下町だとせいぜい浅草辺りまでで、山の手となると高輪、広尾までとなる。多少差があるが、今の大江戸線内となる。尤も、より年配者となると更に狭くなるに違いない。
 こうした現象を探ってみると、東京の開発がより進んだということだろう。つまり緑が少なくなったということに他ならない。
 『武蔵野』という作品がある。これなどは、今の渋谷辺りの話である。どうみても信じられないであろう。自分の印象だと吉祥寺付近にその面影を見る。故に、吉祥寺までを山の手と呼ぶことに違和感を覚える。
 より付け加えるならば、下町、山の手における移動は徒歩を基本とする。これが出来ない場所については認めるのは難しいのではないだろうか。
 東京を知るには徒歩が一番である。都内の大動脈である地下鉄は人間観察においては優れているものの、東京を把握するには不向きである。路面電車が未だ残っていたならば、これに勝る乗り物はなかったに違いない。つくづく残念である。
 毎日の様にどこかで工事が行なわれている東京は、一日とて同じ表情の日がない。必ずどこかしらが異なっている。それが日常化してしまっているために、気付いた時にはかなりの変貌を遂げてしまっている。かつてそこに何があったかを覚えている人はごく少数である。
 何はともあれ、東京を知るため今日も歩く。
(第四十九段)
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by akasakatei | 2002-09-12 12:27 | 余暇 | Comments(0)

保羽喜(しらかばの)

四年半振りに、さいたまの地主に会う。前にも書いたけれど、地主の故郷は室蘭である。話は自ずと先日の鉄道の話になる。あれからひと月以上経過するが、某鉄道からは未だ何の報告もない。本当にサービス業としての自覚があるのか。口先だけである。
閑話休題、地主によると、北海道の鉄道は接続を悪くすることによって、その土地で下車をさせ、旅行者に金を落とさせようとしているらしい。自治体と示し合わせているようである。これでは、まるで追剥である。
人間とは、かくも恐ろしい。利益のためなら何でも行なうのであろう。
地主から、もうひとつ怖い話を聞いた。
現在、彼は世を忍び西洋長屋で暮らしている。そこの階下の住人には会ったことがないらしいが、多少煩くすると、下の住人が棒で突っつくという。特に、先日は激しくドアを開ける音がし、苦情を言われるのかと思ったらしいが、実はそうではなく、地主の原動付き自転車の座席シートを切り刻んでいたという。
世の中物騒である。一番怖いのは、何を考えているか分らない人間ということだろう。
それにしても、この下の住人の行為は立派な犯罪である。どうして、そうした行動に出るのか理解に苦しむ。また、天井を突っつく棒とはなんだろうか。かつてなら、箒の柄を使ったのかと察せられるが、今日どのくらいの家に箒があるのか。男やもめの部屋にあるとは、どうしても思えない。
箒の思い出としては、本来の機能意外に、長居の客を追い返す呪い、また鼠や泥棒を追い払うのにも使ったものである。最早、それらは遠い彼方の出来事となってしまった。
(第四十八段)
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by akasakatei | 2002-09-06 12:25 | 社会心理 | Comments(0)