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果物籠(じゅうにし)

最近、仕事の関係で所謂有名人に会うことが多い。身近に接してみると、どうも道徳が出来ていない。注意をしたいところだが、他に人があることもあって、ついそのままとなってしまう。
それにしても、放送局の人間に関わると大いに疲れる。これは注文ばかりだからである。良い映像を撮るためなのだろうが、態度が大きい。何気ない日常の幸福を平気で壊す。一般的な常識など持ち合わせていない感もある。
その隔たりはたぶん縮まないだろう。傍若無人に振舞い、自ら出したごみの処理さえやろうとしない芸人。また、挨拶さえない製作者。これでタメグチがない方がおかしい。
一般人にとって、マスコミ業界は花形のイメージがあるかもしれないけれど、その功罪は大きい。社会学的には、かなり昔から指摘されていることのひとつとして、大衆操作がある。これは七十年前後に様々な学者によって論じられた。
ここでは最近の例を上げる。現在、夜型の人間が増加している。これには、テレビやラジオが一晩中休止されていないこととも関係がある。勿論、増加の理由は他にもあるものの、そのひとつであることには変わりがない。
その影響は身体・精神に対し、悪影響を及ぼしていることは否めない。目先の利益ばかりを優先すると、何れ痛い目にあうだろう。生物の基本は、朝になったら起き、夜寝ることである。
これを生活様式の多様化と歓迎する向きがある。そんなに好意的で構わないのか。
(第三十六段)
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by akasakatei | 2002-06-30 12:09 | 社会心理 | Comments(0)

青戸里(するりとすきまより)

先日、国語に関する調査結果が新聞に出ていたが、全く嘆かわしい。確かに、言葉は生物である。が、世代間での差があり過ぎる。それによると、カタカナ語の大部分を若い世代は理解しているものの、高齢者になるほどそうではないという。
言葉だけではない。生活様式にもその傾向はある。ひと回り違うと、何を考えているのかさえ分らない。この頃、二十歳前後の連中に時々接するけれど、煙草の吸殻を紙と一緒に平気で捨てている。後のことを考えていない。火事になるとは思わないのか。
そうした常識さえ、最早通用しないのである。多様な価値観や個性を世の中は求めているけれど、最低限の規範・価値があってのことである。
その都度、注意をするが、これは家庭での問題である。ある大学の教授によると、学生の生活態度を大学で管理して貰いたいとの要望さえ、親よりあるらしい。こうなると、園児と変わらない。
それにしても、半年以上『岩戸傳惱梦草帋』を書き続けているが、これほどタメグチが多くなるとは思いもしなかった。段々、小言幸兵衛になりつつある。溜息ひとつする毎に、幸せがひとつ逃げるという人があるけれど、そうかもしれぬ。幾つ幸福を逃したことか。
何はともあれ、皆が気配りを持って生きていてくれるなら、それで万事が収まる。それに気付いていないから、更に厄介なことになる。ある意味、ここではその警鐘を鳴らしているわけでもある。尤も、鳴らしていてもタメグチが減らないということは、信じたくはないが人間が愚か者ばかりになってしまったということだろう。
(第三十五段)
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by akasakatei | 2002-06-22 12:07 | 教育 | Comments(0)

喜途果(よあけまえの)

普段生活している分には気付かないけれど、我々はつい思い込みで行動し勝ちである。そこに明確な理由があるわけでもないのに、何の疑問さえも感じない。事実を知りたい者は気を付けねばなるまい。特に、専門家と称される人に多い。
例えば、某線の某駅が都市化事業のため、現在工事を行なっている。そこは、これまで上り下り線ともホームの幅が三メートルはあったのだけれど、今度工事のため仮設のホームになった。その幅が恐ろしく狭い。上下線が同一の島式ホームになったこともあるが、四メートルほどである。これでは、ラッシュに対応出来ず、危険である。S駅のような事故が起きないことを祈る。
こうしたことは多い。乙新幹線もそうである。乗った経験のある人は知っているだろう。甲新幹線内で乗降時にドアの下からステップが出てくる。これは甲新幹線がフル規格のことを忘れたための苦肉の策である。更に説明を加えると、在来線と新幹線ではレールの幅が違う。その関係によって、車輌の大きさも異なる。この事情が先の結果となったわけである。
素人からすれば簡単に分りそうなものだが、そうでもないらしい。長年同じ仕事に関わっていると、考え方が硬直してくるのは当然であろう。利用者の視点に立てば、これらの例は防げたはずである。 
今日、どこの職場も求めている人材は軟らかい発想の持ち主である。言うのは何でもないけれど、実際そのような人は少ない。これは社会化とも関係する。いくら時代が求めているとはいえ、そうした人間を本当に必要とするなら、かなりの覚悟が欲しい。その場合、改革ではなく、革命となるかもしれない。これは歴史を振り返れば明らかである。
(第三十四段)
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by akasakatei | 2002-06-16 12:06 | 社会心理 | Comments(0)

日是芽具実(かぜたちぬ)

この二週間、風邪のため何をする気にもなれない。原因は分っている。未だ、旧暦卯月末だというのに、どこに行っても冷房が効きすぎているからである。当然、自室は自然に任せている。
それにしても、何を基準に温度を設定しているのか。上着を着なければならぬ会社員か、それともすぐ熱くなる若者か。そうした中、JRや地下鉄などで弱冷房車があるのは有り難い。
こうしたサービスは一見簡単そうだけれど、実際はどうか。事実、特急の指定券を求める場合、禁煙席は選択出来るものの、弱冷房車は不可能である。長距離を走る列車ほど、そうしたサービスが不可欠である。二十年前では考えられないことである。当時は、社会面で、初夏ともなると各鉄道の冷房化率を載せていたことが懐かしい。
今の若者には通じまい。この種の機械は便利だが、電気がないと意味をなさないことを忘れてはならない。我々の生活は逆にいえば、非常に脆いものの上に成り立っているわけである。自然の一員である意識を持つ必要がある。
先日、某人気特撮番組が打ち切られた。出演者が逮捕されたためという。番組がそうしたテーマを前面に押し出していたこともあり、たとえ事件が昔のことだったとはいえ、放映は難しいと判断したのだろう。
親は、放映を毎週楽しみにし、また主人公を信じていた子供にどう説明するのか。納得させられるのか。たぶん、無理だろう。
生きていくのは難しい。年々そう思える。『吾輩は猫である』の教師の心境である。
(第三十三段)
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by akasakatei | 2002-06-15 12:05 | 社会心理 | Comments(0)

羽馬谷(いちまんのかちは)

どこに行っても最近は蹴鞠の話ばかりである。関心のない者からすれば、猫が球を追いかけているくらいの認識しかないものの、世間ではそうでもないようである。つい先日も越生の図書奉行より連絡があり、ネットで切符を手配してくれと頼まれた。自慢するわけではないが、それに関する記事など読んだことも、見たこともない。どこに接続すればいいのか分らず、結局は国分寺の師匠に訊いたわけだが、今ごろ切符の話が出ること自体が怪しい。
 そうしたこともあって、色々と調べ、関係書類に目を通してみると、どうも蹴鞠組織そのものが確りしていないようで、要は異人特有のいい加減さを持ち合わせているようである。こうした組織には関わらないのが一番だけれど、どうしても気になるのなら信じるのではなく宝くじでも買う気持ちで望んだ方が利口に違いない。
 大体、ネット予約からして馴染みがないものである。時同じくして、隅田川花火大会の特別鑑賞席について電話予約が開始されたがこちらは大きな混乱もなく半日で埋まったという。我が国ではこうした方法が合っているということだろう。歌舞伎にしろ、能楽、文楽も電話予約が先行し、その後窓口販売が始まる。
 本当に国民的行事ならば、その国の実情に合わせて行なうべきであろう。そうした配慮を欠き、ただ迷わせているだけではそのうち愛想をつかされるだけである。そうした意味では、本来的な国際化とはいえない。
 異国に振り回され過ぎである。そんなに気を遣う必要があるのか駅の表示板も英語に加え、ハングルや中国語でも付記されるようになった。ちょっと、煩い。逆に見難いと思う。やり過ぎはよくない。
(第三十二段)
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by akasakatei | 2002-06-09 12:04 | 国際 | Comments(0)

歩有早為備(じんさいは)

知的障害者や精神病患者について、社会で広く受け入れるよう言われているけれど、実際どうなのだろうか。
 この問題は人権も絡むけれど、西鉄のバスジャック犯のようなことが起きるのは困る。また、この種の人は結構敏感であり、ちょっとした音でも嫌がる。そこから、傷害や殺人事件が起こってもおかしくはない。
 こうしたことを考えると、社会の受け入れへの土壌は出来上がっているとは言い難い。現在、町は音の洪水であり、神経に障らぬ場所を都会に求めるのは難しい。
 普段、喧騒な場所で暮らしていると何とも思わないけれど、冷静に観察すると自動車やオートバイは勿論のこと、右翼の街宣車、パチンコ屋など極めて煩い。確かに、景気付けにはいいかもしれないが、健康で文化的かといえば疑問である。
 何はともあれ、まずは後見人や保佐人が外出する時に付き添うのは最低限必要であろう。仮に事件を起こしたとして、不起訴なら被害者やその家族はどこに怒りをぶつけたらいいのだろうか。本来なら、加害者の後見人らがそれ相応の責任を取るのが筋に違いない。が、実際にはそうでもないという。
 このような欠陥があるのは、法作成者が現状を知らな過ぎるためである。どのくらいの人が、患者に接したことがあるのか。経験によると、その力は見かけによらず、かなり強い。火事場の馬鹿力はこうした力をいうのかと感心したくらいである。あれで襲われたら、相手が何を考えているのか分らないこともあり、普通の人はどう対処したものか分らないだろう。法的整備が望まれる。
(第三十一段)
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by akasakatei | 2002-06-01 12:03 | 福祉 | Comments(0)