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攻政司(けまり)

最近、専ら話題となっているのが蹴鞠である。遥遥と海を越えて、南蛮人が来ている。それにしても、蹴鞠如きでよくこれほど騒げるものと感心している。小心者からすると、蹴鞠よりも選手に金魚の糞のように付いてきている暴動を起こそうとする南蛮人の方が気になる。
南蛮人が血に餓えている人種であることは、これまでの事例からも明らかである。これは、その祖先の生活とも関係しているけれど、南蛮人が我々を人間としてではなく、単なる虫けらとしか考えていないためである。
 それも知らずに歓迎している人々を目にするとかつての広島を思い出す。未だに、米利堅ではあれを正当化しているけれど、そのようなことはない。昨年のテロと比べたら、テロなどましと言うべきだろう。何しろ、広島だけではなく長崎でも、未だに苦しんでいる被害者が多数存在しているのである。こうしたことも知らずに、頭に血を上らせていた某大統領も、それで少しはこれまでの過ちを認めたならば立派だったのだが、そうしなかったのは愚かとしか言い様がない。何はともあれ、相手は異人であり、理解するなど不可能に違いない。
 真の国際化とは何か。バブル時は内なる国際化が盛んに叫ばれたが、平成になって以降、ほとんど耳にしなくなった。国際化したわけではなく、国の立て直しでそれどころではないからだろう。こうした現状からすると、その道は遠い。国際化とは、相手の文化を理解した上で、自国の説を押し付け干渉しないことである。そこにはその国の歴史、文化があるからである。
 こうした定義によって、国際化した国がどれだけあるといえるだろうか。
(第三十段)
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by akasakatei | 2002-05-25 12:02 | 国際 | Comments(0)

閉世囲(さかささこく)

 景気の底打ち宣言が出されても、簡単に信用出来ないのが現在である。それにしても、行なわれる政策がこれほどうまくいかないのはどうしてか。
 町を散策していても、誠に平和そのもので失業や倒産など、どこにも感じられない。新聞やテレビで言っていることが本当だとすれば、もっと政府に対する不満があってもよさそうである。つまり、国民が切羽詰っているなら、既に行動に移っているはずである。ところが現実は違う。このため、政府も本腰を入れて対策を取っていないのである。
 考えてもみれば、公務員の給料は税金である。普通に勤務していれば国が倒産しない限り、失業の心配がないわけだから、思い切った政策をしなくて当然である。下手な政策を行ない失敗した日には、どうなるか分ったものではない。自己保身に走ってもおかしくはない。
 行政改革とは名ばかりである。第一、末端を知らないキャリアが要綱を作成し、貧乏生活の経験がない政治家が議論していることからして誤りである。庶民の実情を知らないわけだから、それこそ画に描いた餅になってしまう。こういう時こそ、地獄を見た庶民の代表こそが首相になるべきである。そういうしないことには、この国の未来はない。
 これこそ真の改革というものである。今の改革は小手先ばかりであり、問題の先送りに過ぎない。恐らく派閥の問題だろうが、互いに争っている場合でない。この現実が分らぬ者に、いつまでも政治を預けているほど国民は無知ではない。
(第二十九段)
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by akasakatei | 2002-05-18 12:01 | 政治 | Comments(0)

歩狸庵菜香(けものみちでは)

普段、我々は死について考えていないけれど、ふと、その瞬間を想像する時がある。多くの人は長い間闘病することもなく、ぽっくり逝きたいと願っているだろう。
この間、飴で窒息し死にそうになった。死にそうになった経験は何度かあるが、何れも子供の頃である。成人してからは初めてである。まず、頭をよぎったのは仕事である。迷惑を掛けるかもしれない人の顔が幾つも重なる。不思議と助かろうとは考えなかった。これは死に対して恐怖を感じていないからかもしれない。何故なら、死とは寝ていて夢を見ていない状態と捉えているためである。最初こう考えたのは学生時代である。今回の経験からすると、別段痛みなど感じることもなく、それは一瞬のことともいえる
反対に死について恐怖を感じている人がいるのも事実である。はっきり言って、怖いものではない。経験により、今ではその考えも確信となった。宗教家は、天国や極楽、それに地獄を唱えたりする。恐怖からそれへ救いを求める人がいるものの、正直、救われるか否かは疑問である。というのも、宗教の意味とは、道徳・規範・倫理的なことだからである。
例えば、死の恐怖を逃れさせるために、生きている間に善を行なうよう勧めるのは社会秩序の安定に他ならない。特に、政教分離していない社会では、その持つ役割は大きい。
現在、この国は政教分離をしているにも拘わらず、どういうわけか先日のような例があったりする。某首相が靖国参拝を行ない、新聞の一面を賑わせた。確かに、戦争の愚かさを忘れないことは重要であるが、首相として参拝する必要があったのか。更に、後日有事法まで出てきた。今こそ、大いに議論すべき時期である。これまで、政治と宗教に関してはタブーとされていたが、最早そうした時ではない。
(第二十八段)
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by akasakatei | 2002-05-12 12:00 | 社会心理 | Comments(0)

祭鯉風(なつのけい)

この連休中、所用で左沢に行った。勿論、鉄道である。鉄道の旅のいいところは、社会の縮図をじっくり観察出来るところである。人間や地域文化を知るには、フィールドとして申し分が無い。
 特に、この時期だと車窓における鯉幟に注目したい。東京では鯉幟を上げる家を最近見かけなくなったけれども、地方ではそうでもないと思っていた。ところが、現実は十年前と比較して、かなり減っていたのである。
 その理由については、流れる車窓で考えた。当然少子化の影響もあるだろうが、家が増えてきていることが要因のひとつとしてあるのかもしれない。つまり、地方においても、駅近くなどは人口が密集しだして、庭のある家が建てられなくなっているのである。実際、新幹線に乗れば分るけれども、どこまで行っても東京の延長である。家並みが途切れることがない。ある異人が東京は何と広いのか、と感心した話を聞いたことがある。
 こうなると、かつての旅の意味が薄れる。即ち、日常からの脱却ではなくなる。今日では日常の連続となってしまい、そうした車窓の楽しみも半減したといえるのかもしれない。それはハレとケの感覚が無くなったことを指す。社会変動を知る上ではとても興味深い。
知らない間に消えていったものはかなりの数になる。特に、年中行事など民俗関係で目立つ。それだけ、ハレの意味が無くなっていったわけである。
 現在、鯉幟の起源を知っている人がどのくらいいるか知らないけれど、そこには子に対する両親を始めとする周辺の人の願いがあるわけで、ただ上げる場所がないからと廃れさせてしまっていいのだろうか。端午の節句である。ひとりひとりが今一度考えてみたらどうだろうか。
(第二十七段)
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by akasakatei | 2002-05-05 11:59 | 余暇 | Comments(0)