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司都懸(くらしのむきはきたのかぜ)

悪人が多いこの社会は、ある意味において犯人にとっては暮らし易いに違いない。反面、犠牲者にとっては冷たい。これは、犠牲者に落ち度があったためとの風潮があるからだろう。
が、これは正しくない。大概、犯人が悪いのである。そういったことからすると、犯人の人権ばかりが優先されるのはおかしい。本来、最低限のみ守られればいいはずである。それが、現在、犠牲者と反対になっている。
これをどう捉えるか。
国は矯正教育によって、社会復帰を考えているけれど、これからして問題である。これはまずうまくいった試しはない。犯人は成長過程に問題があったわけで、人格が確立してしまっているのである。それを矯正するのは余程のことがない限り無理な話である。
これに固執している間は、犠牲者は救済されないだろう。根本から変革しなければならないだろう。
案としては、罪に対する罰を重くすることだろう。極端な話、十万円以上盗んだり、人を傷付けたりしたら、即刻死刑でも構わないだろう。犠牲者の人権を侵したのだから、当然である。こうした時に犯人の人権を守る必要はどこにもない。
これによって刑務所や少年院の維持費や裁判の長期化もなくなる。また、浮いた予算や労力を他で使うことも出来る。
尚、中にはやむを得ずに手を染めてしまう者もいるだろう。この場合、一考するのは勿論である。
それにしても、年々犯罪は増加しており、何時、何処で、何が起きてもおかしくない状態である。物騒なことである。それらを分析すると人間関係があまりにも希薄であり、最早相互行為とは呼べないことが多い。特に、コミュニケーション不足が目立つ。
(第二十三段)
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by akasakatei | 2002-03-30 11:55 | 社会心理 | Comments(0)

忙力賭死我(さくらのしたには)

花の盛りは短い。小野小町も『古今集』にそうした和歌を残している。特に、今年は開花が早いこともあって、追い立てられるように花見に行った人が多かったのではないだろうか。各地の桜祭りでも、混乱が生じたという。尤も、そうした祭りは否定しないけれど、元々は庶民の楽しみである。あまり組織が動く必要もないのではないかと思う。
某月某日、小金井に赴く。同行者は千住の写真家である。
花見といえば、墨提、上野であるが、今回はわざわざ地元から小金井までの遠征である。
小金井については、『江戸名所図会』にも玉川上水の花見の様子が描かれていて、当時からそれなりに見事だったと思われるものの、現在では公園内のそれになっている。そこでは、思い思いに寛いでいる。一見平和な光景である。不況など忘れてしまっているかのようである。たぶん、騒がしかった幕末も庶民はこうした状態だったのだろう。
尤も、根底にあるその価値観は異なる。これを比べた場合、江戸の方が現代よりも人間的だったことは否めない。兎角、現代は相手を思い遣ること自体が、損をするという方向に話が進む。確かに、この社会において信用の出来る人間が果たしてどれだけいるか。少なくとも、社会に出てから知り合った関係では、真の意味における友情はまず結べない。人の善意を悪用する輩があまりにも多過ぎる。迂闊に信用出来ないとは、悲しいことである。
 結論からすると、こうした社会には未来がない。あるのは、ことごとく相互関係のなくなった崩壊した枠組みだけである。最早、それは社会と呼べるものでない。それはもう日常生活に現れている。
(第二十二段)
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by akasakatei | 2002-03-28 11:54 | 余暇 | Comments(0)

花暦発生刃(こっけいぼんではなく)

旧暦で暮らしていると、つい季節に敏感になる。開花や年中行事など、それに関係していることもあって、新暦だと時間的ズレがあって困る。例えば、桃の節句は終わったけれど、桃の開花はもう少し遅い。毎年、桃見には千住の写真家の町内まで足を延ばす。東都には意外とその名所が少ない。
その桃見だが、今年は梅、桜とも開花が早く、例年よりも早目に訪れなければならないだろう。現に、近所の桃は開花した。
それにしても、こうした現象をどう考えたらいいのか。この冬は積雪で鉄道が遅れることもなく、花も早い。明らかに、自然がおかしくなっている。今更、環境については論じないけれど、春は花、夏は鳥、秋は月、冬は雪を友とするひとりとして大変嘆かわしい。
四季は我が国の特徴のひとつである。またそれに結びついた年中行事も存在する。この国を語る上で重要である。その結晶が『歳時記』である。異国ではまず目にすることはない。
『歳時記』は俳人だけのものと思う人がいるかもしれぬが、それは違う。暇に任せ頁を捲れば、自然、生活、動植物、風習など、普段忘れてしまったことを思い出させてくれる。正に、心の古里ともいえる。
これほど郷愁を思い起こさせる書物も珍しい。そうした視点から眺めれば、現代社会はやはり不健全である。食ひとつとっても、最早一年中何でも食卓に上がる。我々はそれを日常としてしまっているものの、これは将軍以上の贅沢といえる。
かつてはその時期だけにしか味わえない自然の恵みであって、何につけても有難さがあったに違いない。現代は何事も科学で解決しようとしているけれど、その結果のひとつが今年のこの状況であることは明白である。
何はともあれ、これから続く浮間の桜草、亀戸の藤、根津の躑躅、薬王院の牡丹など花暦は今後も大幅に狂う可能性がある。
(第二十一段)
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by akasakatei | 2002-03-23 11:53 | 余暇 | Comments(0)

花濃事独本(ほこりはらいて)

花粉症の季節である。ここ五年ほど苦しめられている。毎年注意していれば分るけれど、年々患者は増えていっている。周りでも、千住の写真家や佐貫の酒仙らがこの時期になると怪しい姿に走る。
確かに、花粉が防げれば格好などどうでもよくなる。最近ラッシュ時でも、両の鼻にティッシュを詰めている人をよく見かけるし、目元近くまで大型マスクで覆い、更にゴーグル姿で決めている人もいる。各自でそれなりの工夫をしているようである。とはいえ、そういった姿で車を運転している人を見掛けると怖いと思うのも事実である。
 何はともあれ、望まれるのは根本より治療出来る薬である。これが開発されればどのくらいの人が助かるか。尤も、本来それは好ましいものではない。薬は何であれ副作用が必ず付く。そうした意味からすれば環境を変えて貰いたいのが本音である。
 かつてはこうしたことはなく、最近目に見えて患者が増えてきたこともあり、現代病のひとつに数えられる。その原因は戦後に植樹した杉や公害などといわれている。これから察するにお上の行なうこと全て正しいとはいえない。頼れるのは自分だけである。
 曰く、世は自己責任の時代である。国や会社は最早当てにはならないことは周知の事実である。ここらで発想の転換をする必要があるのだろう。が慣れていない人にとってはその道は茨に違いない。こういう時こそ、先人の知恵を借りたい。幸い書物はかなり出版されている。これも識字率が高かったからだろう。そうでなければ、これほど残ってはいない。今でも赤ゲットの異人は路上生活者が新聞を読んでいるのを見て、腰を抜かすという。
 これらは重要である。書物は文化の物差しである。もう少し目を向けても良いだろう。機関はその源がなければただの塵だということを忘れてはならない。自然災害の前では役立たないこともある。便利さばかり追求していると、何れ出来ないことだらけになってしまう。この季節はそれを思い出させる。
(第二十段)
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by akasakatei | 2002-03-10 11:51 | 社会心理 | Comments(0)

仮生政(うつつのじごく)

先日まで冬の世界大運動会が開かれていた。それほど、競技に関心はなく、テレビ観戦などしないものの、ニュースを聞いていると嫌でも情報が入ってきた。
そこで多少違和感を覚えたのが、日本代表選手のその出で立ちである。茶髪で、しかも瞳が病気なのかと思わせる視力矯正器具である。最初どこの代表かと思ってしまったくらいである。よく見れば、日本の代表である。
日常生活で見慣れてしまっていることもあるけれど、これはやはり異常なことなのかもしれない。日本人の特徴がどこにもない。感じられるのは、人工的な雰囲気だけである。外人からすると、仮装でもしているのではないかと勘違いしてしまいそうなほどである。
何の疑問もなく本人はしているのだろうが、高齢者にしてみれば、特殊な世界の人間と思ってしまう。また、最近では、自我が芽生えてもいない子供でもそうした外見のものが増えているという。これなどは、両親の好みだろう。
こうした現象をどうみるか。流石に芝居の隈取と同様と考えるわけにもいかないだろう。どちらかといえば、民族学でいう呪いか。魔物に対する意味とした方が近いと考えられる。ならば、ここでいう魔物とは何だろうか。
社会のことか。その延長で考えると、見えない敵や嫌悪するものになる。多分、当の本人らに訊ねれば不満を感じていないと言うだろう。深層ではどうか。軽く流行と思っているに違いないけれど、その意味するところは重要である。それまで常識だったことを壊すのである。
そうなると、国民の多くがこの国に対して、変革を望んでいることになる。政治はそこを汲み取らねばなるまい。利己心の政治では仕方がない。この状態のままでは、やがて、国は滅びるだけである。
(第十九段)
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by akasakatei | 2002-03-02 11:50 | 教育 | Comments(0)