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実面輩質端(かねとこねがものをいう)

心の病が問題となっている。その性質上、どのくらいの人が苦しんでいるのか、今ひとつはっきりとしたことは分らないものの、最早現代病のひとつになっているのは明らかである。恐らく、身近な人の中にもいるだろう。その年齢層も幅が広い。改めてこの社会を問い直す必要がある。
例えば、こうした人の多くは心が人一倍敏感であり、それ故に辛い思いをしていると察せられる。逆に、大量の情報が飛び交い、人を蹴落とせねば生きていけないこの競争社会で、何とも無く生きている人は、一種の異常ともいえるに違いない。本来の人間の姿とは程遠いと思われる。現代が疲れる理由はここにもその要因がある。
しかも、この競争社会は初めから結果が見えている。即ち、いくら努力をしても勝つようには出来ていない。「金とコネが物をいう」のである。
一見平等に見えるものほどそうでもない。大学の入学試験にしても、要は、保護者に塾や参考書代などが出せるか否かによる。また、公務員試験も、地方公務員なら首長や有力議員へのコネの有無、国家公務員なら議員は当然として試験作成者の所属する学生かどうかにもよる。更に、コネを作るにはそれなりのものが必要となってくる。
 これらは本人の努力だけでは如何ともし難く、その環境次第で左右される。この社会には、残念ながら表だけではなく、裏もある。この裏が我々の生活に多大な悪い影響を与えているのは否めない。悪の根源を絶たねばなるまい。
 気の毒にも心の病になってしまった人は、適応出来なかった人達である。言い換えれば、純粋ということである。それにしても、それとは反対である押しの強い人間が実社会において尊敬されるとは世も末である。今は自己中心時代だと再認識する。そうした人々によって、今日も誰かが傷付けられているのである。加害者には意識が無いのだから困ったことである。他者の痛みがどうして分らないのだろうか。              (第十六段)
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by akasakatei | 2002-01-27 11:46 | 産業 | Comments(0)

時初鼓呼鷺(はるいまだとおく)

幸福とは何だろうか。人によってそれは違う。また、同じ人でも条件次第では異なる。人間とは勝手なものである。
 七年前の阪神大震災で価値観が変わった人も多いと察せられる。良くも悪くも、この社会が脆いと気付かされただろう。とはいえ、「喉下過ぎれば熱さ忘れる」の諺通り、月日の流れと共に、戦争同様天災の記憶は遠くなっている。
 こうした中、ボランティアが我が国でも漸く定着したと言われている。確かに、以前は学校の授業の一環など、参加者が活動の見返りを期待している風潮があった。本来の自発的な意味とは程遠い性格だったことは事実である。江戸では考えられないことである。そこには、助け合いの生活があるからで、困った時にはお互い様という精神があった。ここら辺が欧米と異なる。
 よく欧米は切支丹的精神の影響もあり盛んと捉えられているものの、果たしてどうであろうか。例えば、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によると、乱暴だけれど、ひと言で表せば、結局、己のためということになる。我々は西洋人を単に買い被っているだけなのかもしれない。つまり、死後、天国に召されようと、現世で偽善活動に励んでいるとも考えられる。
 利益社会においては、実際のところ、ボランティアは難しいのではないか。なぜなら、ビジネスがその分野に進出してくるからである。特に、煩わしい人間関係や地域の慣習など、隣近所の付き合いさえ敬遠したがる現代では、お金さえ払えば何でもやってくれる商売は有難いに違いない。
 契約社会は一見合理的かもしれないが、心を持つ人間にとって実はそうでもない。それは人の数ほどある。規格化された機械みたく合理的には出来ないものである。これは重要である。ここを忘れている者が多い。人は、無駄に生きる生物である。また、これがあるからこそ、文化が生まれるのである。極端に言ってしまえば人間の存在自体、環境汚染される地球からすれば無駄ともいえるだろう。
(第十五段)
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by akasakatei | 2002-01-20 11:45 | 社会心理 | Comments(0)

未正道(らくばのさむらい)

千住の写真家と七福神巡りをして気付いたことがある。正月の町の綺麗なことである。特に、烏を見かけない。これは新鮮な発見であった。ごみを収集に来ないため捨てる家や飲食店もないからであろう。改めて減らしさえすれば、烏が姿を見せないことを知る。
 思えば異常な社会なのかもしれない。あまりにも食べ物を粗末にし過ぎている。宴会で食べ物が残るのは日常風景になっている。宴会だけではない。昼食時でも同様である。飢えで苦労した人間としては心が痛む。思うに食べ物に感謝を忘れている。
 第一に食卓に上った野菜や魚、動物であり、第二に料理人、第三に口に出来ることである。特に、現在何気ない日常の幸福を忘れている者がほとんどである。かつてこうした時代はなかった。いつまでも続くわけではない。事実崩壊しつつある。
 その昔、宴会といえば折り詰めが付き物であった。出席した者は料理を家に持ち帰るのである。これにより、普段、目にすることなどないような物を家族は口にしたのである。見えぬ効果として、団欒があったことだろう。
 経済が発展するとともに、こうした風潮は消えた。お金さえ払えば、文句はないだろうという、情けない世の中となってしまった。特にバブルの頃は酷く、眉を顰めたものである。お金だけが全てではないはずである。我々は本当に大切なものをかなり失った。 
 確かに、大切なものは条件によって大きく変わる。哲学でも論じられているが、普遍は変わらない。そこを日常より心掛けたいものである。
(第十四段)
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by akasakatei | 2002-01-13 11:43 | 社会心理 | Comments(0)

江戸出初式(はつはるたんぽう)

 正月二日、江戸探訪に行く。今年は成るべく江戸の生活をしたいと思っている。そこで、この日は七福神巡りに出掛けることにする。同行者は千住の写真家である。この話が最初に持ち上がったのは、森下での忘年会だったが、決定したのは元旦である。七福神はいくつかあるけれど、場所は江戸より残る谷中とする。歩くと一時間半ほどである。距離的には、その前に神田明神での初詣も加えたため、飲みすぎた身体にはほど良い。
 十四時、御茶ノ水駅を出発。天気予報は曇りとなっているものの、青空も見える。この時は、後に試練が待っているとも知らずに歩き出した。巡る順序は神田明神、不忍池弁財天、護国院、長安寺、天王寺、修性院、青雲寺、東覚寺である。御茶ノ水より上野経由で田端に抜ける散策である。
 さすがに、神田明神の人出は凄い。何年か前の初詣にも訪れたことがある。確か、朝霞の評論家と桐生の課長が一緒だった。あの時は元旦だったので尚更である。
 二日とはいえ、それでも境内で舞う獅子が正月気分を盛り上げる。その周りに人垣が出来ている。これで、つい一週間前、耶蘇の神の祭りを騒いでいたのだから、大多数の人の感覚をどう解釈すればいいのだろうか。
 無宗教と結論を出すのは簡単だけれど、反対に八百万神の影響といえなくもない。その血が我々には流れている。絶対的唯一神じゃないからこそ、寛大に受け入れることが可能なのかもしれない。だからこそ、七福神も成り立っているに違いない。
(第十三段)
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by akasakatei | 2002-01-05 11:42 | 余暇 | Comments(0)

民願幸(ゆめのしまよりながめれば)

都電が姿を消してどのくらい経つのだろうか。現在、都電荒川線が残っているものの、そのほとんどが専用軌道である。今ひとつ軌道線の感じがしない。かつては網の目の様に路線があり、空を見上げれば、蜘蛛の巣を連想させるほどであった。
昨年の忘年会は森下で千住の写真家と行なった。ここも以前は都電が走っていたものだ。今ではその面影すら残らない。都電だけではない。街もすっかり変わってしまった。その中で、数少ない面影を残す店で深川鍋を突っつく。古き良き物が消えていく。
現在、様々なものが造られている。ついこの間まで最新だったのに、すぐに古い型になってしまう。使い捨てばかりである。修理をすることがなくなってしまった。職人がいなくなったこともあるのだろう。愛着という言葉がそのうち死語にさえなりかねない。
民俗学という学問がある。庶民の生活道具は重要な資料である。今後、その研究対象はどうなるのだろう。その対象となる祭礼、芸能、年中行事なども廃れつつあるものが多い。
一般的に、弱者にとってこの社会は冷たい。かつてなら、どの業種にしても、熟練労働者は存在した。それが見当たらない。職人はいなくなったのではない。合理化の名の下、消されたのである。後継者がいないと言われるが、事実は異なる。行政がそう仕向けたのである。これで誰もが本当に幸せなれるのだろうか。
以上の点から考えるに、江戸で駕籠に代わり馬車を提唱した人がいるけれど、従事者の生活から認めなかった幕府は大したものということになる。また、江戸では幕末を除き物価は安定しており、年中苦しんでいる我々より余程人間らしい生活が出来たのではないだろうか。
(第十二段)
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by akasakatei | 2002-01-03 11:41 | 地域 | Comments(0)