<   2001年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧

書見月夜話(ともしびちかし)

季節の巡りは早く、知らぬ間にもう師走である。特に、この秋はそうだった。落ち着く暇も無かった。テロや狂牛病など世間が騒がしかったこともあるだろう。
秋は気候も良く、何をするにも快適である。食、運動、芸術、学問など、どれに打ち込むかは人それぞれだけれど、虫の音を聞きながら、ひとり灯火の下、書を楽しむのは何とも言えない味わいがある。かの吉田兼好もそう書き記している。
人によっては、これを贅沢というだろう。確かにそうだろう。今や虫の音が聞こえない所もある。第一、時間に束縛されるサラリーマンは、平日読書さえ楽しめない。
一体どのくらいの人が読んでいるだろうか。学生時代、ある程度読んでいた人でさえ、社会に出た途端遠ざかる。中には雑誌や実用書、漫画だけという人もいる。これは寂しい。
今度、国語の教科書より夏目漱石が消えるらしい。理由は生活様式が変わり過ぎて、背景の説明からしなければならず、学習する余裕がなくなるからだという。この処置はおかしい。先人を知ることも勉強とはいえないか。受験勉強が全てではない。
そういう点からすると、古の人の古典に対する知識は凄い。繙けば分るけれど引用が多い。当時の人もそれを読み納得しているのだから、古典はもう常識だったといえる。
これは何を指すか。現代では、以前と比べ発行される書が多く、他に娯楽もあり、誰もが読んだ経験のある本は生まれ難くなっている。これは音楽も同様である。それでも、古典は時を超えて残ってきたものである。そこには何かしらの意味があるはずである。それを見つけるのは自分であるが、その入り口となるのは教科書である。その役割を忘れて、何の教科書であろうか。
(第八段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-26 11:36 | 文芸 | Comments(0)

家図枯(えぞたいりょうぶしはるか)

 超高齢社会と表裏一体で問題となっているのが、少子化であろう。尤も、これは最近の晩婚化とも密接な関係がある。友人・知人を見回しても世帯持ちは美濃の役人と行徳の引越人だけである。
 この背景を考えてみる。一般に結婚は人生の墓場ともいう。あながち嘘ではないだろう。夫婦とはいえ、所詮は赤の他人である。それがひとつ屋根の下で暮らすわけだから、付き合っていた頃には分らなかった嫌な面も目に付くだろう。これが所帯を持つことである。夫婦だけならこれで終わるが、これに舅姑、子供がいたらどうなるか。悩みは尽きないだろう。
が、少子化問題はこれだけではない。独身者によると、学歴社会を生き、漸く社会に出たものの、そこからまた結婚、子供の数、その進学先についてまで訊ねられるのを嫌だと感じている人はかなりの数だという。ひと昔前ならば、こうした意見に対しては批判が多かったに違いない。
今や失業率は高くなり、大企業に在籍していても明日はどうなるか分らない。正に一寸先は闇である。価値観が変化してもおかしくない状況が続く。こうした中で、何時までも競争ばかりで良いのだろうか。他人と比べるから不幸が始まるのではないだろうか。
人生とは自分を知る旅である。一番を目指す人生もあるだろうが、本来、旅とは点ではなく線を楽しむものだったはずである。その過程こそが醍醐味だったのでないか。先人の『東海道中膝栗毛』や『奥の細道』にしてもそうである。この精神は重要である。現在、忘れてしまった人が多過ぎる。嘆かわしいことである。
(第七段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-24 11:35 | 家族 | Comments(0)

美渡霞雅深(おいてますます)

地域社会の役割を見直す時期に来ている。これまで語られることは少なかった。その中心には年配者が適任である。超高齢社会となった現在、若い世代のみに全てを任せておくわけにはいかない。確かに、行動力や企画に関しては負けるかもしれないものの、経験はどうだろう。長い人生を生きてきたのだから、地域に役立てれば、どれだけ住み易くなることか。かつてはそうした人がいたからこそ、地域が活性化していたともいえる。
 但し、これには必要な条件がある。それは肩書きに拘っていないことである。企業の論理が染み付いた人では、地域は良くならない。価値観が全く異なるからである。己の利益ばかりを優先する人には無理だろう。即ち、他人を思い遣れなければならない。街で煙草やごみを決まった場所に捨てられない人や電車内で傍若無人の態度を行なっている人などにはその資格はまず無いだろう。
 どれだけの人に資格があるのか。それほど多くはないだろう。これが現在住み難くなっている証拠である。資格者が増えれば増えるほど地域は良くなり、それはまた我が国の発展にも繋がるのである。
 特に、若い世代が少なくなっているので、お互いに助け合っていかなければ、生活を営むことさえ困難になっていくのは明白である。お金さえあれば何とかなるというのは一部の人の話であって、大多数はそういうわけにはいかないに違いない。現制度では生活保護があるけれど、将来的にはどうか。行政とは弱者から切り捨てるものである。あまり頼りにはならないだろう。こうした国家を形成させたのは我々であり、今こそ認識を改めるべきである。
(第六段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-21 11:33 | 地域 | Comments(0)

町内雀(ちょうないすずめ)

 毎日何気無く利用している鉄道だけれど、社会の縮図としては面白い。そうした中、年々気になるのが公共の場における行動である。携帯電話が普及して以後、益々酷くなっている。
 この背景を探ると、幼少の頃より何処へ行くにも自動車で出掛けていたことが指摘出来る。結果、公共心が育たなかったのだろう。つまり、身内の時と同じように振舞っているのである。
これは地域社会の衰退と密接な関係がある。というのも、以前ならば、子供を育てるのは親だけではなく、地域も関わっていて、悪いことをした場合など、側の大人が注意したものである。今、同じことをしたら果たしてどうであろうか。当時は地域社会がうまく機能していたといえる。
こうした傾向は終戦後顕著になっている。価値観が百八十度変わり、戦勝国の風潮が全て正しいと錯覚してしまったからである。が、それはまた同時に、子育てを難しくするものとなった。何故なら、新しい社会は利益を優先することであり、己のことのみを考える寂しいものだからである。個人主義の台頭である。
最近、米利堅並みの凶悪犯罪が目立つのは、あまりにも個人主義の意味を誤って解釈しているからで、地域の役割を見直す時期である。それに求められるのは、互いを思い合う心を養うことだろう。かつては、誤って足を踏んだ時など、踏んだ方が誤るのは当然だけれど、踏まれた方も「気付きませんで」とひと言あったという。現在では、足を踏んだ、踏まないだけで殺傷事件になる可能性さえある。
何はともあれ、まずは地域に関心を持つことであり、最低近所の顔と名前だけは一致するようにしたいものである。いざという時、本当に頼りになるのは、遠くの親戚より向こう三軒両隣である。
(第五段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-18 11:31 | 社会心理 | Comments(0)

夷狄酷貧乱(たいへいの)

米利堅は先日来混乱が続くが、思えば幕末もこういう状態だったのだろう。狂歌風にいえば、太平の眠りを覚ます乗機霰たった四杯で夜も寝られず。先のテロに対し、米利堅の大統領は文明に対する挑戦と発言した。ならば、当時の人も侵略者と思ったに違いない。事実これは間違っていない。あの頃の欧米では日常的なことであった。狩猟民族ということも関係しているのだろう。
ペリー来航の本当の理由は、植民地化への偵察だったという。一般的には、捕鯨に際して燃料を補給するため、となっているが実際は違う。鯨に関しても、知能の高さを強調し捕鯨に反対しているものの、逆にいえば、食が文化になっていないから、食卓に上がらなくても大丈夫だったのだろう。
この背景には歴史がないことへのコンプレックスがあると考えられる。大概の国においては神話や伝承ある。その多くは民の心を揺さぶるものである。これは知らず知らずのうちに結束が強まる効果があるけれど、米利堅ではその役割を代わりに競争主義の経済成長に求めたのである。経済の目的は、利潤を上げることだけである。そこには無駄は許されない。つまり、遊びが存在しない。
結果、前世紀までは表面上うまく機能していたのだが、ここに来て綻びが見える。それは抱える病理に対処出来なかったことによる。
文明から文化へと発展しなかったからである。それ故、国益に縛られ、独り善がりな内政干渉を行なうこととなった。
九月の出来事も当然の帰結かもしれない。これをどう捉えるかによって、今後本当の意味での文化国家になれるか否かが問われる。それには、合理性ではなく遊び心が不可欠である。
(第四段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-13 11:29 | 社会心理 | Comments(0)

東都徒指南(あそびこころえ)

最近でこそ情報産業は不況と言われているものの、一時飛ぶ鳥を落とす勢いだったのは記憶に新しい。こうした状態を見るに、壇ノ浦で滅んだ平家を思い出す。 
平家といえば、今月話題なのが芝居だろう。『義経千本桜』が、東京では二箇所で掛かっている。国立劇場では成田屋が一人で知盛、権太、忠信の三役を演じることで大いに盛り上っている。また浅草の仮設小屋では中村屋がこれまた三役を熱演している。この小屋では江戸の雰囲気を再現している。昨年好評だった『法界坊』に続き二回目となる。更に、地方では澤瀉屋が観客を楽しませている。毎月公演が行なわれているのは東京だけなので、首を長くして待っている人もいるに違いない。
だが、そうした人は恐らく少数である。現在、若手の台頭もあって芝居の人気は高まっているものの、テレビの中継も含めてどのくらいの人が観劇した経験があるだろうか。人口に対する割合としては低いだろう。何も芝居だけではない。落語でさえ寄席に通う人は多くない。共に、江戸より伝わるものだけに、その楽しみ方を知らないと楽しめないためだろう。ひと言で表現すれば遊びである。遊びとは、本来心を充実させてくれるものだが、最近の娯楽においては刺激を満たすものばかりである。
これは余裕がないからだろう。今や時間のある人は幸福といえる。多くの勤め人は、こうした世だから自己研鑽や資格を求め、貴重な私的時間を学校通いに費やす。江戸の指南通いとは異にする。そこでは純粋に習い事である。落語の『あくび指南』の世界である。
文化とは余裕があって初めて生まれるものである。生活に追われている時代には、文化は生まれ難い。現在、目に映っているのは、狐や狸に化かされている状態ともいえる。
(第三段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-10 11:28 | 文芸 | Comments(0)

寝聞迷怪化(ちゃぱつあたまをたたいてみれば)

狂牛病が世間を騒がせている。このため、牛肉を敬遠する人で洋食屋はかなりの打撃を受けているという。牛肉の騒ぎに関して記憶を探ると、維新の頃以来ではなかろうか。あの頃も牛鍋屋へは、口にすると頭より角が生えるため、大部分の人は足を向けなかったものである。今日では逆に嘆いているのだから、変われば変わる世の中だなと思う。
何はともあれ、今回の騒動は科学が発達した結果であろう。その昔ならば、牛が草以外のものを食べるなど信じられなかったものである。こうした例は一部分に違いない。
現代社会は資本主義故、それこそ利潤の追求ならば何をしてもいいという風潮がまかり通っている。数年前の原発事故にしても、常識では考えられないことだが、実際にはそのために起こっている。
最早、現代社会では何が起こっても驚くことはない。本来ならば、法や規範、慣習などが抑制させるのだけれど、うまく機能している様子がない。それは新聞やテレビを見れば一目瞭然である。事件や事故を報じない日はない。社会秩序は乱れ、凶悪な事件ばかりである。社会の変動を感じる。この背景には、家族や教育、地域などが抱えている問題が複雑に絡んでいる。
 これに答えを与えるのは、それこそ大変である。けれども、参考にすべきことはある。戦後日本が経済的に豊かになるために、捨てていったものを見直すのである。文明のために、失っていった文化は多いはずである。何事も新しければ正しいわけではない。茶髪頭を叩いてIT革命の音ばかりでは寂しい。
(第二段)
[PR]
by akasakatei | 2001-11-07 11:26 | 産業 | Comments(0)