先日、父親より故郷の空襲時の話しを聞く。それによれば、下町は三月だったけれど、故郷では五月だったという。
この日、祖母が「今日辺り、来るんじゃないか」と話していたらしい。それは軍隊の記念日とのことである。
この空襲について、我々は空襲警報が鳴り、それから逃げると錯覚しているところがある。実際には、空襲警報は天気予報のようなもので、誰も信じていなかったらしい。というのも、情報にタイムラグがあったようなのである。
また、警報が鳴ったら、防空壕に逃げると我々は思っている。故郷では防空壕を作ろうと思っても、二十センチも掘ると、水が出てきたので作れなかったらしい。空襲時、最初は氷川神社に逃げようとしたものの、境内に行くまでの坂道に人が多く、また境内が燃えているとのことで、幼稚園の付近に逃げたという。そこは、崖上に中学がある。この崖が関係しているのか、無事だったという。
それにしても、興味深かったのは、当時、Tという人が班長をしていたらしい。この人については、戦後も長く生きていたので覚えている。その立っている姿から地蔵と呼ばれていた。空襲時、本来ならばこの人が中心にならなければならないのに、この人が真っ先に逃げたため、その後は信用を失った。班長からTのオヤジと言われるようになったらしい。この話しを聞いた時、妙に納得をする。
(第五百八十八段)