高校野球の東東京大会を観戦するため、蝉が煩い神宮球場まで足を運ぶ。
一般的に、郊外へ行くほど蝉が煩いと思われているけれど、都内の方が多い。これは都内には古い寺社が残り、緑が豊富だからである。郊外は家ばかりであり、蝉の生息には向いていないからであろう。
蝉の声は懐かしい。故郷では夏ともなると、それこそ喧しいほどであった。特に、氷川神社周辺はそうであった。
あの当時は、夏に蝉がいること自体が日常だったので、別段、何とも思わなかった。その後、郊外が久しくなり、それを耳にしなくなって、どれだけの時が流れただろうか。夏に蝉が鳴くこと自体を忘れていた。
それを球場に向かう道で思い出す。
子供の頃は、先に書いた氷川神社でよく蝉を採ったものである。だけれど、蝉の寿命を知って、蝉採りは止めた。その一生のうちのほとんどを地中で過ごし、成長して地上で生きられるのは一週間くらいと知ったからである。
他にも、前に触れた空き地では蜻蛉や蝶、飛蝗などもいて、網を片手に熱心に追い掛けていた。これも蝉採りを止めたのとほぼ同時期に、親から、「お前が捕まった虫と同じ立場だったら、どう思う」と諭された。それ以来、網は握っていない。小学校の低学年の頃である。
(第三百二十三段)