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忙力賭死我(さくらのしたには)

花の盛りは短い。小野小町も『古今集』にそうした和歌を残している。特に、今年は開花が早いこともあって、追い立てられるように花見に行った人が多かったのではないだろうか。各地の桜祭りでも、混乱が生じたという。尤も、そうした祭りは否定しないけれど、元々は庶民の楽しみである。あまり組織が動く必要もないのではないかと思う。
某月某日、小金井に赴く。同行者は千住の写真家である。
花見といえば、墨提、上野であるが、今回はわざわざ地元から小金井までの遠征である。
小金井については、『江戸名所図会』にも玉川上水の花見の様子が描かれていて、当時からそれなりに見事だったと思われるものの、現在では公園内のそれになっている。そこでは、思い思いに寛いでいる。一見平和な光景である。不況など忘れてしまっているかのようである。たぶん、騒がしかった幕末も庶民はこうした状態だったのだろう。
尤も、根底にあるその価値観は異なる。これを比べた場合、江戸の方が現代よりも人間的だったことは否めない。兎角、現代は相手を思い遣ること自体が、損をするという方向に話が進む。確かに、この社会において信用の出来る人間が果たしてどれだけいるか。少なくとも、社会に出てから知り合った関係では、真の意味における友情はまず結べない。人の善意を悪用する輩があまりにも多過ぎる。迂闊に信用出来ないとは、悲しいことである。
 結論からすると、こうした社会には未来がない。あるのは、ことごとく相互関係のなくなった崩壊した枠組みだけである。最早、それは社会と呼べるものでない。それはもう日常生活に現れている。
(第二十二段)
by akasakatei | 2002-03-28 11:54 | 余暇 | Comments(0)
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