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欺転恥争増(しんかみろん)

 先にも書いた越生の法家とは飛行機の他に、神道の話をした。最近、法家とは宗教の話しを結構する。宗教全般から見た社会への影響に対し関心があるけれど、法家は様々な本を読んでいるようでその教義にも詳しい。
 話しを聞いていると、色々な宗教があるものである。その多くは一神教である。特に、新興宗教で目立つ。このため、排他的なところが多いのだろう。住民との摩擦が絶えない。
 その数日後、また先に書いた聖書を研究している年配者と話す機会がある。
 聖書にあるように全ては神が創ったもので、進化論は嘘であり、神が守るために人は死なず永遠に生きると言っている。死なないならば、生命保険の必要もなく入っていないのかと問えば、それには加入しているという。更に、永遠の命ということは、死なないわけだから、食べるために稼ぐ必要もなく、働かなくても良いのではないかと訊けば、聖書にあるから働き、暇を持て余すから働くらしい。
 どう考えても嘘で、永遠の命など信じられないといえば怒り出す始末である。
 こういうところが排他的な宗教の信仰者らしい。
 元々、キリスト教における神とは人生というマラソンの伴走者のようなもので、特に何かをしてくれるものではない。守るということはない。偶像を禁止し、神は目に見えないものと教えを説いているが、これは単に無知な者を騙す手法に過ぎない。
 多かれ少なかれ、どの宗教も如何に騙すか、これで日夜頭を痛めているのが現実である。
(第五百十一段)
by akasakatei | 2005-01-23 11:33 | 社会心理 | Comments(0)
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